今なら素直に・・・・

6月9日(火)晴れ
ピッカ〜〜〜ン!朝から良い天気。
じじの寝具類カバーや枕等々、朝一で洗って干した。
布団類は全てじじが屋根に干してくれた。
今夜はお日様の匂いのするフッカフッカ寝具で
気持ち良いだろうなぁ〜。

じじは、母が亡くなった後から
よく母の愛がいかに大きく深かったか話したり
仏壇に手を合わせるようになった。
父が亡くなった後も、色々話してはくれたが
男性にとって、母親は「唯一無二」の存在なのだろうね。
ばばの同級生のNさんも、数日前、ばばに話した。
「うちの人ね、父親が亡くなった時は
仏壇に手も合わせなかったのに、母親が亡くなったら
毎月の墓参りも必ず行くのよ。不思議」と。
お昼ご飯の時、じじが言った。
「父の恩は山より高く、母の恩は海より深いって言うけど
全くその通りだと思う。とりあえず、今のじじとばばは
娘達にとって(父の恩は井之川岳(徳之島で一番高い山)より高く
母の恩は大瀬川(徳之島では1番大きくて深いかなぁ?)
まぁ、それは、じじとばばが亡くなった後、
娘達が考えるだろう事だけど」って。
じじにそう言われたら、ばばも考える。
自分が実家の両親や、じじ両親にしてもらった事に比べ
ばばが、娘達にしてあげた事等、ほんのわずかだなぁと。

自分が年を重ねるにつれ、
いかに親が子供に掛ける愛情が大きかったか考え、
幼かった頃の頃の自分の行動を反省する。
末っ子で、我が儘で、厳しい母親には悉く反発した。
口で反撃できないし、行動でも強い反撃はできなかったけど
母に注意されると、ドシンドシン、わざと足音荒く歩いたり
ガチャガチャ大きな音を立てて食器を洗ったりしていた。
今にして考えたら、母の言っていた事がほぼ正しかったと思えるけど、
当時は、厳しい母が憎くて、憎くてたまらなくなる時もあった。
前髪が少し眉にかかっても、すぐにパッツンカットされるし
中学生になって、前髪を分けてピンで留めたら
「今はお洒落をする時では無い。
お洒落は大人になればいくらでも出来る。
今、あなたがするべき事は学校の勉強をしっかりすることでしょう」
と言った、母の言葉、今でも忘れられない。
小学校高学年から、中学校2年生頃までかなぁ・・・・
ばばが悉く母に反発していたのは。

小学校上がる前から、お客さんの前で座る姿勢が悪いと
お客さんに気づかれずに、ばばの太もも辺りを
ギュッとつねったりもした母。
後で見ると、つねられた跡が青あざになっていた事も良くあったなぁ。
とにかく反抗的だったばばに、母は厳しくて
どんな悪さをしたかは忘れたが
家の真ん中の柱に藁縄でくくりつけられた事があって、
そのことを、過日じじ妹に話したら、
「ばばちゃんが、そんなお転婆だったなんて信じられない」って
体をよじって笑い転げていた。
今思えば、母が括り付ける前に反撃したり逃げることも出来たろうに
無抵抗で柱に括り付けられていたのかなぁ?

あの母の厳しさがあったからこそ、曲がった道に行かず
まぁまぁ、まともな大人になれたかなぁと思うようになったのは
自分が結婚して、母親になってからだった。

「人間いつかは死ぬ」ということが分かってはいても
「自分の親は絶対死なない」と思いたかった。
しかし、50歳前後になって、夜寝ている時などに
「もし、自分の親が亡くなったらどうしよう?」と考える事が多くなり
そういう時は悲しくて、苦しくて、眠れずに朝を迎えることも多かった。
父も母も80代まで長生きしてくれたし、じじ両親は90代まで長生きしてくれた。
親4名を見送って、心に大きな穴があいたような昨今。

じじが、お昼帰って来て玄関から入ってすぐに今日も言った。
「今までは撮影中でも、母ちゃん、変わりないかなぁと、
ずっと気になっていたけど今は、その点は気が楽になった。
でも、やはり、まだ母ちゃんが死んだって実感が無いんだよなぁ」って。

そんなじじの言葉を、祭壇の前に飾られた母の遺影は
微笑んで聞いている。

今なら、自分の親にも、幼かった日の自分の行動を
素直に謝れるような気がする。
「お父さん、お母さん、あなた方の真意も知らず
反抗ばかりしていてごめんなさい。」と。

 

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