1.「タキンシャ(滝下)= 実熊滝(さねくまたき)」のこと

すでに100歳を優に超す亀津近辺の往年の先輩諸氏も、水あしび場=夏の避暑地であり、

今風の言うと水泳やハイキングなど近場の行楽地。また少し大げさでオシャレ?に言えば

当時の青少年たちにとっての「青春の発露の場」として、夏になるとワイワイ、ガヤガヤとしゃべりながら三々五々、

亀津の街から大瀬川沿いを池田線に沿ってテクテクと20分ほど登りそこから左手に降りて行くと、

夏休みの一番の思い出を作ったのが他ならぬあの「タキンシャ」に違いない!?

通称”タキンシャ“、字名実熊袋にあるから”実熊滝(サネクマタキ)“。

ここ“タキンシャ”については、大正5年に亀津尋常高等学校校長の松元虎之助(熊本県人)が、

当時校歌のなかった亀津尋常高等学校に「亀津村の歌」として作詞作曲したその一節に

〽川のみなもと訪ぬれば 実熊滝は数十尺 高くかかりて 堂々と 落ちる水音勇ましく〽とうたわれ、

昭和10年代は亀津全村から集まった青年学校の生徒がそれぞれの集落で盛んに歌っていたようだ。

その“タキンシャ”では、往時、東京や鹿児島からの帰省学生や島の同級生など若者が集い、

滝に打たれるもの、滝つぼで泳ぐもの、また滝の水しぶきを浴びながら水辺で語り合うもの、

それぞれがふるさとでの貴重な時間を惜しんで、青春を謳歌していたのである。

「とある日、突然ダリヤミ(晩酌)仲間曰く

『なんぶぇ タキンシャや いきゃしゅんぷぇ なーとぅんがやー(最近は タキンシャは どのように なっているんだろう)』。

『ぅぐぁしやー、昔や ゆー 遊しびが行じゃいがやー(そうだな、昔はよく遊びに行ったけどなー。)』

早速翌日タキンシャあそび隊”を結成・決行するも、昔からの入口はなく、やむなくずっと下流から川の中へ入り、

雑草・雑木が頭上をおおう中、ゴツゴツ・ゴロゴロの石に足元を取られ、

これが本当に往年の自称スポーツマンだったのかと疑いたくなるような足取りでかれこれ30分、

懐かしい・涼しげな滝音が聞こえだすと“ホッ”、『あーてぃ!!(あった)』。

隊員にとってはおよそ40年ぶりの“タキンシャ”とのご対面、感激に疲れも“滝”に流されるが如く心身の清涼感満喫!

隊員、しばし言葉を忘れたたずむ。しばし休憩の後、次に訪れる時のための道路作りの提案があり、

さっそく初期高齢者間近の武士(もののふ)もどきが半日がかりで何とか歩けるほどの道をこしらえた。」

これは、筆者たちがかつての夢多かりし青春をわずかに偲んだある日のことである。平成16年8月の記)

願わくば、現在のタキンシャを町の景勝地や、亀津から近場の遊び場として「兵どもの夢の跡」を蘇らせることができればと夢みる。 (R2・11・7)


2.「滄浪(そうろう)の井記(いき)」碑について

旧警察署(代官所)跡裏の井戸跡に残る 美 女 伝 説 !!

亀津中区の徳之島警察署跡(現合同会館)の裏通りにあるA商店倉庫敷地の南角ブロック塀隅に

高さ約1メートルの石碑が建っているのが「滄浪の井記碑」である。

そこには『アンガサレ(島妻・妾)の悲哀の物語』があった。

昭和40年「徳州新聞」に「碑」にまつわる記述があり、それにそって「滄浪の井記」について紹介してみたい。

碑石の立っている所には古くから井戸があり、藩政時代この井戸の前、旧徳之島警察署跡に代官所の御座(事務所)があり、

大仮屋と呼び代官の住居となっていた。炊掃婦をおいて食事洗濯にあてこの井戸水を専用した。

炊掃婦には専ら炊掃のあたる女と、代官の現地妻や妾になる女とがいた。

現地妻や妾は“アンガサレ”といって島民に課せられた税金や労役を免れ、

横目役(役人)でないとできない銀かんざしを髪にさし、その給料は地元負担(“島持ち”という)であった。

伝説によると、『昔、亀津に相愛の夫婦があり、その妻の美女が代官の命令で“アンガサレ”に強制徴用されたので、

美女はその晩に床を抜け出しこの井戸に投身自殺をした。村の人たちがこれを憐れみ水祭りをしたが、

代官所の炊掃婦はこのことがあってから大瀬川の上流から水を汲んで御用をしたという。

「滄浪」の語は、人間の生き方のありようの例えに使われる言葉で、

中国戦国時代の政治家で詩人の屈原が詩「漁夫の辞」に取り込んで歌っている。

ちなみに、屈原は流浪の果て川に身を投じて自殺した。

薩摩の圧政化の下、自分ではどうしようのない身と世の中をはかなんで、

井戸に身を投じたアンガサレの伝説に思いをはせ、

この後に代官に着任した漢学に素養のある武士が「滄浪の井記」と書き遺したのではあるまいか。

碑石は建ててから相当の年数がたっており摩滅して、わずかに「滄浪井記」の文字が判読できる程度である。

町民の皆さんもこれを機会にぜひ一度ご覧になって、薩摩藩圧政下の島民の心に思いを馳せてみては・・・。(R3・5・12)


3.軍艦石(グンカンイシ)のこと

今は無き通称“軍艦石”は、もともとは“フナタイのタンジャ”(大名當の立岩)と呼ばれていたという。

地元では別称「アングシク」と呼ばれていたという。

亀津東区の徳之島町体育センターと文化会館のある辺りに存在していた。

大名當(俗称フナタイ、船渡り)海岸に、東西に横たえたその雄姿はおよそ30メートル、

高さ4~5階建てのビルに相当したであろうか。あたかも戦艦“アングシク号”を思わせるのに充分であった。

かつて満潮時になると周囲が潮水に洗われ、いかにも軍艦が停泊しているような巨大な風化した珊瑚礁の岩であった。

徳富重成氏「シマの郷土文化」と小林正秀氏の「亀津の年中行事」を参考に、

”軍艦石“の雄姿とそれにまつわる伝承を紹介してみたい。

それは軍艦石と“七日寝太郎(ナンカネタロウ)物語“である。

『ある男が7日間も目覚めずに軍艦石で寝続けたとのこと。よほどの睡眠不足がたたっていたのか、

それとも疫病の災禍に襲われ寝込んだのかと憶測をしたいのだが、伝えでは、暦が普及していなかった頃のこと、

祖先祭(オヤホジムィ)や畦払い(アンダネィ)など年中行事の期日は役人が各村落を順番に回って通知していたと言われる。

ある男が各部落への祖先祭の伝達を言いつけられたが、島尻間切り(伊仙町)から亀津まで終えたら日が暮れ、

亀徳との間にあった軍艦石で一夜を明かすはずであったが、深寝をしてしまい目覚めたら7日も寝たことに気づき、

慌てふためいて秋徳(現在の亀徳)、和瀬(徳和瀬)の順にふれ回ったという次第。

現在なお亀徳川を境に亀徳以北は一週間遅れで祖先祭をするのは、

前記の経緯に由来するとの伝承であるようだ。

先祖祭の使いの途中、7日間寝たのでその男を「七日寝太郎」と言うようになったという。

”祖先祭“の名称は、集落や個人によって異なるが、祖霊儀礼としての内容は共通している。』

由緒ある”軍艦石“は、経済成長の波に飲み込まれ、亀津海岸の埋め立て事業によって昭和58年にはその自然の雄姿を消してしまった。

埋め立てによる除去については島内外の出身者から猛反発があったと聞いている。

岩の上部は青々と草木がしげりイソヒヨドリが美しい声で鳴いていた。惜しむらくは、世界自然遺産登録が確定した今、

当時の為政者たちは、あのすばらしい自然の景観を残したまま活かすことができなかったものかと大変残念に思う。


4.徳之島町出身者から発せられた知られざる“奄美日本復帰の第一声” (1)

今年は私たち奄美の群島民が異民族支配から解放されて68年目になる。

毎年記念すべき奄美群島本土復帰の日が、

なぜかわが徳之島においては影が薄いのが気にかかるので先人たちの思いをたどってみたい。

軍政府に抑圧された貧しく重苦しい生活を強いられた中、

徳之島の先人が自由に本土と往来し本土並みの日常を送るために熱い思いで戦いを始めたのが終戦直後である。

前田長英は大正10年(1921年)徳和瀬集落の開祖ネーマ家に生を受け、

向学心に燃え上阪し丁稚奉公しながら優秀な成績で大阪の高校を卒業、

関西大学に入学するも体力が弱り志半ば帰郷。

神之嶺で教員をしながら徳和瀬青年団長として青年団を中心に島興しを決意、

青年の娯楽のため演劇の台本つくりや島の歴史学習に自ら講師として活動。

昭和20年(1945)終戦によりアメリカ軍による“信託統治”を余儀なくされた。

翌年天城村で開催された徳之島各町村連合青年団の弁論大会で前田は、「頽廃の叫び」と題し雄弁をふるった。

「何だそれは!」と数百人の聴衆を騒然とさせたのは結びの言葉であった。

異民族支配が歴史的文化的にも不当であることや、

本土との交通遮断によって島の未来さえも奪い取ろうとしていることの不当を

「我々の生きる道は、復帰によって一日も早く祖国日本へ帰る道以外にない」と訴えて第1位だった。

これが徳之島における復帰運動の歴史的な産声とされている。

終戦直後、しかも米軍政府統治下に置かれたその年に公然と島民の前で熱く“復帰”を訴えたのである。

その後、軍政府の圧迫が強くなり、前田をはじめ多くの青年団幹部が命がけで本土に脱出(密航)した。

京都の立命館大学に入学、夜間部で学ぶも病気療養退学。

その間も創作活動を続け、『奄美大島脱出記』を発表、奄美人の窮状を訴え復帰運動への協力を訴えた。

昭和33年(1958)帰島。

働きながら執筆活動を続け『黒糖騒動記』など多くの著書や、徳之島郷土研究会長として島の文化運動にも貢献した。

私たちにはこの先人の熱い血が脈々と流れている。

将来の徳之島・奄美のために今私たちにできることはないだろうかと思わずにはいられない。

「頽廃の叫び」原稿

5.徳之島町出身者から発せられた知られざる“奄美日本復帰の第一声” (2)

“奄美民族を救う道は本土復帰以外にない“と決意した爲山道則亀津連合青年団長は、

昭和22年(1947)年本土で復帰運動を興し国際世論に訴えるために命がけで単身密航船で徳之島を脱出し、宮崎から第一声をあげた。

奄美群島日本復帰運動の指導者と言えば、誰しも当然‶泉芳朗先生″を想起するであろう。

今回は、本土から‶復帰運動を点火した″と言われる人物を紹介したい。

奇しくも前田長英と同じ年に亀津で生まれた〝爲山道則″がその人である。

亀津尋常高等小学校から大志を抱き満州(中国東北部)に渡り、満州鉄道に入り働きながら学業に精励。

成績優秀ながら家が貧しく進学できない子弟を全国から集めていた難関満鉄育成学校に入学、

満鉄高等学院に進むも繰り上げ卒業となり学徒出陣、復員後向学心抑え難く大学入学も先の見通し立たず帰島。

昭和21年(1946)、創立した亀津高等女学校の英語教師として着任。

徳之島の学校教育で英語の授業は史上初めてであった。

教師をしながら青年団活動を続け、亀津連合青年団長として島の民主化運動を牽引するも、

祖国復帰を主張する青年団幹部に対する軍政府の迫害が激しくなり、

昭和22年(1947)密航船で鹿児島県庁に行き、復帰運動のことを相談しようと奄美出身で後の副知事を訪ねるも面会を拒否、

知事も連合国軍総司令部(GHQ)に気遣い消極的だった。

母県の鹿児島県頼むに足らずと分かり失望・落胆して、出身者の多い宮崎大島町に行く。

そこで出身者の協力を得て大島町青年団をはじめ復帰運動の組織づくりに奔走、

本土で初めて街頭で募金や署名活動の復帰運動を公然と展開する。

昭和25年(1950)2月17日、

宮崎県奄美大島青年団が全国の奄美同胞に「青年よ立ち上がれ」と呼びかけた檄文は、奄美の復帰運動の〝点火剤 ″ となった。

この呼びかけに応え郷土では、奄美大島連合青年団が祖国復帰を民族運動として位置づけ、歴史的意義をもつ運動に乗り出した。

彼が奄美の日本復帰運動で果たした先駆的役割は、歴史上燦然と輝いている

昭和25年宮崎県庁に就職、退職後は県日中友好協会、社会福祉事業などへ大きく貢献し厚生大臣賞を受賞。

6.方言札(ホウゲンフダ)と島口(しまぐち)

私が中学校1年生の時のことで、今でも鮮明に記憶に残っている。

校内にいる間、方言を使った生徒は罰として「私は方言を使いました」と首から方言札を下げられるのである。

方言札を下げている生徒は恥ずかしいので、早く次に方言を使う生徒に札を渡したいばかりに、

方言を使う生徒を見つけなければならない。

そのためにわざと「〇〇を方言で言うと何と言う。」と聞き、

相手にうっかり方言をしゃべらせるというずるい方法で方言札を押し付けることがあった。

また、敵もさるもの、前もって「それは方言で言うと」と言って、切り抜けるのである。

当時、学級内では割とゲーム感覚で札のやり取りをしていたような気がする。

亀津のN氏(昭和3年生)の体験談よると、小学校4年生の時に教室で友だちと方言で話しをしていたら、

先輩が方言の取り締まりに見廻ってきて見つかり、

1時間目から4時間目まで校庭に立たされたそうだ。(その頃は「方言札」はなかった)

「方言札」は、標準語(共通語)を習得させるために、

広くはヨーロッパ、我が国においては東北地方の一部や沖縄県・奄美諸島などでみられる。

なぜ懲罰的意味合いの方言札を使ってまで「共通語・標準語指導」がなされたのか。

特に沖縄県・奄美諸島においては、都会への就職者が多く、

共通語が自由に使えないハンディは大きかったことであろう。

結果として、出身者たちが都会生活でコミュニケーションの上でさほど苦労しなくなったのは、

方言札の効用も少なからずあったことは否めない。

ただ、島人(シマヌッチュ)の生活の中で、方言(シマグチ)でないと心情の微妙な部分は表現できない所も多々ある。

それが島らしさ(シマグチ) の長所にもなってはいまいか。

シマグチを後世に継承するために、様々な取り組みがなされているが、

現在の共通語中心の生活で、高齢者のいない家庭ではシマグチに接する機会など皆無に近い。

シマグチの使える人間がいる間に、何とか衆知を集めて継承できたらと思うこの頃である。(R4・7・19)

7.車塔(クンマントウ)とナガタマチジョ

〽 カラトンティン トゥリヤシ ドーヤ クシヌ ムラドー
(塩辛蛸が獲れやすい所は 下久志村だ)

島唄「全島口説き」に唄われた下久志集落から、横綱朝潮関生誕の地井之川集落が望める台地で、

視界が開け遠くは加計呂麻の島々が見える所一帯が「車塔」である。

藩政時代のこと、ナガタマチジョという絶世の美人が大和人と恋をした。

その恋人が島を去る時、置き去りにされたマチジョが後を追って駆けつけたが、

舟は帆を上げて出た後で、消えゆく舟の見えるこの岬に立って男の無情を恨み、近くの田行の滝に身を投じた。

それ以来「車塔・田行」近隣の道路に女の幽霊が出没し、車の行く手を阻むなど怨念ぶりを見せると言い伝えられている。

「下久志から亀津へ用足しに出かけると帰りはたいてい夜になる。

亀津で一杯やるか、途中の集落で呼ばれてほろ酔い機嫌で帰る人のことか定かではないが、

車塔にさしかかると髪をふり乱した怨霊が急に飛び出してきて後をつけるとか、

コウモリのような大きな物体が覆いかぶさってくるなどとも言われていた。

原因はわからないが、鹿児島から来て亀津で茶店を開いていた人が、夜に車塔で死んでいたという話や、

馬に乗って亀津から北の方へ向かう途中、この場所で急に空から大きなコウモリのようなものに襲われ、

それが原因で二週間後にはポックリ死んでいたという事があった。

下久志分校の4年生になると神之嶺の本校に通うことになるが、この道は決して一人歩きはしない。

一人歩きをしなければならない時は、わき目もせず必死に駆け抜ける所であった。

私が教員時代のこと。井之川の村外れに親切なじいさんがいて、私が教員になったことを我がことのように喜び、

『夜道は危ないから、遅くなる時は泊まって行けよ』と口癖のように言っていた。

職員会で遅くなったある冬の日、帰宅途中井之川の外れまで来るとすっかり暗くなっていた。

下駄を手に持ち裸足で歩き出した。闇は次第に深く、風のない不気味な夜だった。

いよいよ車塔に差し掛かると、突然曲がり角からふしぎな物体が飛び出してきて、

立ち止まって動かない。変な奴だと思いながら勇気を出して前方へ進みだすと相手も後退した。

私が足を速めると相手も速め、立ち止まれば向うも止まった。

石を投げるとさっと逃げ去るので、もう退散したものと思い進んでいくとまた前方に止まっている。

この時、人を化かす魔物のことなどが連想された。

このまま進めば相手の思うつぼにはまってしまうような気がした。

私は立ち止った。相手も止まってしばらくはにらみ合ったままだった。

自分が後退し始めると相手は執拗についてきた。

石を投げつけると身軽に立ち去るが、またすぐに引き返してきた。

もう下久志へは帰る気はなくなって引返し、じいさんの家の道に曲がりかけると、

後ろの怪物はさっと風を切って駆け抜けて行ってしまった。

じいさんには『魔物に合って帰れなかった』とは言えず、

何気ない風を装いつつ動悸を鎮め、よもやま話をして泊めてもらった。

後で聞いた話だが、野原で親にはぐれた子牛が、家に帰る途中の出来事であったことを知った。」

下久志集落の故老 時 富彦先生『閉ざされた島』より要約した話である。(R4・7・20)