23年目に・・・・

9月19日(月)曇り時々強風
今日は、ばばが大好きだった兄の23回目の命日。
兄とは9歳も違うので、一緒に何かして遊んだという記憶は少ないけれど。
大きな鍋で豚の餌を煮て作る時に竈の前に座ってお喋りをしたり
収穫の終わったピーナツ畑で、
取り残されたピーナツを拾ったりした記憶がある。
何故か、豚の餌を煮ている竈で大きなトノサマバッタを焼いて
食べさせられたこともある。(勿論兄も一緒に食べたよ)
兄が中学生の頃、一回だけ学校へ弁当を届けた記憶もある。

兄は我が家のたった一人の男の子だったので、
両親の期待は大きかったと思う。
奄美市の高校へ進学したものの、一念発起勉強し直して
翌年、鹿児島の高校へ進学した。
学校の先生方は全員「とうてい無理だろう・・」と言っていたらしいが
兄は、見事合格した。
妹の私から見ても、兄は「超」が付くほど真面目で努力家だった。
兄は、高校の教員を目指し、たまたま、ばばが高校入試の年に
喜界高校へ赴任が決まった。
兄の喜界高校への赴任が決まったことで、ばばの進学先も変わってしまった。
それも、受験2ヶ月くらい前になってからね。
女の子ひとり、親元を離れて生活させることに、ばば両親は不安があったのだろう。
ばばの進学先を兄の赴任校へするよう説得され、ばばも受け入れた。
兄との3年間。
同じ学校に兄妹で居ると言うことで、複雑なものもあったけれど、
概ね楽しい3年間だった。
直接兄からは古典を教わった。
クラスメートの手前、何だか面はゆい授業時間だった。
兄が「黄昏時」の説明をした時、
「たぞ、かれ」・・・つまり少し離れたところに居る人が
判別できないほどの暗さの時間帯を「黄昏時」というと言ったのが今でも忘れられない。
また、兄は直接妹を教えているということで
古典のテストの時は特に気を遣っていたようだ。
ばばが、あまりに悪い点数だと恥ずかしいし、
また、あまりに良い点数を取ると
「先生が妹に問題を教えたのではないか?」と
周囲から思われるかも知れないと思っていたのだろう。
だから、ばばは高校時代、現代国語と古典だけは必死に勉強したよ。
元々国語が大好きだったから、あまり苦にならなかったけれど
他の苦手な数学や化学では兄に恥ずかしい思いをさせたかも知れないな。。。。

兄との生活でばばは炊事係だった。
給料日、兄がばばに生活費を渡し、それで一月やりくりする。
毎日買い物に出かけ、数少ないレシピで料理をした。
町営住宅に住んでいたんだけど、お風呂も無くてね、
毎日少し離れた銭湯まで通っていた。
銭湯帰りに買い物をして帰っていたんだよなぁ・・・・
毎日兄と二人分の弁当を作り、洗濯をし、アイロンをかけ
今思うと、料理なんか何を作ったか全く覚えていない。
今ならインターネットで、すぐレシピ検索も出来るし、
料理本も書店へ行けばいくらでもあるけど、当時はねぇ・・・・
ある日、兄の同僚の先生がばばに言ったんだよ。
「おい、ばば。あんたは、自分ばかりいっぱい食べて
兄さんには、美味しいの食べさせていないんじゃないか?」って。
ばばは、顔などお月様のようにまん丸で、兄はゲッソリ痩せていたのも事実。
今思えば兄にとても申し訳ないと思う。

喜界高校は、ばばとを除いて全員、地元の子供が在籍していたので
ばばは、最初ちょっと周囲から浮いた感じだったかも知れない。
また、「先生の妹だから、ばばがうかつな言動をしたら兄に迷惑をかける」
と言う思いから、自分で垣根を作っていたのかも知れない。
先生方や集落の方からは
「お兄さんの世話をしながらよく頑張るね。偉いね」って
褒めてもらうこともあったけれどとんでもない。
料理は下手だし、兄のYシャツに錆を付けてしまい、
着られなくしてしまったり、アイロンがけだって皺を残したままだったり
真実は何とも未熟な主婦だったんだよね。
それでも、兄がばばを叱ることは一度も無かった。
良く兄は我慢してくれたなぁと思う。

何でもチャランポランなばばと違い、兄は几帳面で、努力家だったから
夜中にばばが目を覚ましても、兄はいつでも起きて机に向かっていた。
あんなに勉強することがあるもんだろうか?とばばは思っていた。
ばばと同居の3年間、いろいろな面で兄に不自由な思いをさせただろうな・・・・

ばばが、高校を卒業後2年くらい経って兄は結婚した。
お嫁さんは、実家の隣集落の方で、ばば姉とも知り合いで
とても良い方だった。
「兄さん、良かったね」って、心からそう思い、
兄夫婦の末永い幸せを祈ったばばだったが・・・・

続きは明日書くね・・・・

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