いつになったら
5月1日(月)晴れ
※画像は先日、サーカスを観に行った時、会場近くに咲いていたパンジーです。
色とりどりのパンジーが、沢山咲いていたけれど、ほんの一部です。
今日から5月かぁ~時間の過ぎるのが早すぎるよ~
と思いながら、洗濯したり、食材の買い出しに行ったり。
最近、亡き母のことをよく思い出す。
中学校までは、とても厳しい母だった。
髪の毛の長さ、制服のネクタイの結び方等。
しかし、初めて親元を離て、喜界島で兄と過ごした3年間
両親は、お米をはじめ色々な物資を送ってくれた。
今なら考えられないことだが、カマス(と言っても分からない人が多いだろうな)いっぱいの
精米していないお米を送って来てくれたりもした。
今考えたら・・・何十キロのお米が入っていたんだろう?おそらく50キロ?いや、それ以上?・・・・
兄と暮らしていた住宅から、港まで、結構な距離があったが
近所の同級生の家でリャーカーを借りて、港へ行きカマスを積んで来たこともあった。
後々、母は「なんで、あの時、籾を送ったんだろう?
島で精米して送れば良かったのにね」と、何回か話したことがあった。
ただ、娘を助けたいと思って、大量の籾など送ってきてくれたんだろうね。
ばばが、両親の希望通りの道に進み、島で仕事をすることになった時
とても喜んでくれた。
ばばも、年を重ねると共に「親が元気なうちに少しでも親を喜ばせてあげたい」
と思うようになった。
たまたま同職のじじと結婚し、娘が誕生した時は、毎週末家族で実家へ行き
両親に顔を見せていた。
週末は姉親子と、我が家の家族で実家へ行き、夕食を共にして帰るのが当たり前になっていた。
読書好きな父には雑誌など書籍をお土産に、おやつや食材を買って行って
みんなでお茶を飲んだり、語り合ったりした。
最近、娘達から聞いたのだが・・・・・
娘達は、ばばの実家へ行くと玄関で「じいちゃん、ばあちゃん、こんにちは~」
と声をかけ、そのまま姉の子と一緒に、近くの畑を走り回ったり
海へ行って、遊んだりしていたそうだ。
ばばは、みんなで食卓を囲んで楽しく語らっていた記憶しか無いのだが・・・・
孫達も成長し、島を出た後、ばばの職場が実家の近くになった。
仕事を終えた後は、必ず実家へ寄るのが楽しみになっていた。
母は、ばばが寄るのを楽しみに、ばばのための夕食と、
じじの為のおかずを作って待っていてくれた。
母は、お転婆だったばばに、故事や諺で色々なことを教えてくれたが
「親思う心に勝る親心」という吉田松陰の言葉なども教えてくれた。
又「親孝行、したい時に親はなし」とも・・・・・
両親亡き後、身をもって実感したけれど、今でも「もっと親孝行しておけば良かった」
と思うことはありすぎる。
両親が、ばばが仕事を終え、実家に寄るのを楽しみにしていた年齢をとっくに超えてしまったばば。
ばばは、親にできなかった分、少しでも、じじや子供達に何かをしてあげたいと思う。
だけど・・・・やっぱり「してもらっている」事が多いと気づく。
心では思っていても、実践できないのがもどかしい・・・・