お母さ〜〜〜ん

5月24日(日)雨
10日近く、ブログ更新が出来なかった。
少し、心が落ち着いたの、書いてみようと思い
パソコンに向かっている。

4月23日、母がお世話になっている施設から
「お母さん、食欲が無く、熱もあるので病院へ連れて行きますね」
と連絡があって、じじとばばも病院へ駆けつけた。
採血、いくつかの検査の後、点滴を受け、母は、そのまま入院となった。
入院後、主治医から「誤嚥性肺炎です」と説明を受けた。
一般病棟へ入院したが、母は目も開けず、食事も摂れず
点滴だけの日が続いた。
痰の吸引が何回も行われ、その度に母は全力で抵抗した。
そのため、両手をベッドに括り付けて
痰吸引や点滴が続けられた。
入院から約2週間後、症状は一向に改善せぬまま
夕方病院へ行くと、母は集中治療室へ移されていた。
手の拘束も解かれ、ただ穏やかに寝ているようだった。
痰の吸引も、あまり続けると呼吸停止に至ることもあると
説明されたが、それでもこまめにタンも吸引して下さった。
熱も上がったり、下がったり・・・・・
1日3回、30分ずつのお見舞いの時間には
じじ、ばば、ばば姉で毎日、母を見舞った。
いくら耳元で「お母さん、聞こえる?ばばだよ〜。目、開けて」
と呼びかけても、反応は一切無かった。
そういう中で、「延命措置」について主治医から聞かれ
「胃瘻」まではお願いすることを、家族全員、同意した。
5月15日には、病院の配慮で、母は個室に移された。
個室なら、面会時間に関係なく母の傍についていることができる。
夜はばばが泊まり込んだ。
入院から、ほぼ毎日、じじ妹夫婦や我が家の娘達には
母のその日の容態をメールで知らせていた。
集中治療室から個室へ移される時、
「ご家族で、ごゆっくりとお母様を見守ってあげて下さいね」と
看護士さんから声をかけられた。
個室で、母の体に付けられた器機の数字を見ながら一喜一憂した。
夜、一人で母に付き添った日は、真夜中に数値があまりに危険値になり
ばばひとりでは不安だったので、じじにすぐ連絡した。
じじも、すぐ駆けつけてくれ、ふたりで夜通し母を見守った。
母の体に付けられた器機の数値があまりにも異常値だったので
奄美市のじじ妹夫婦にも連絡した。
16日には、じじ妹夫婦も来てくれた。
17日、母の付き添いをじじ妹と、ばば姉に頼み
ばばは帰宅、夕食の準備をして、すぐ病院へ戻り
妹達と付き添いを交代した。
妹達が家に帰り、食事を済ませた頃、ははの容態が急変した。
すぐ、家に連絡し、じじ、妹、ばば姉も病院へ駆けつけた。
みんなが見守る中、母の呼吸が苦しそうになり
心拍数の数値が下がったり、上がったりを短い間隔で繰り返した。
時に数値が0になり、又40台になったり・・・・
妹が、母のベッド横へ行き「母ちゃん、頑張ってよ〜」と
声をかけながら、母の顔を両手で包み込むようにした。
その時、一瞬「ハァ〜〜〜」というような母の声が響いた。
次の瞬間、「母ちゃんの息が止まった!」と
悲鳴のような声で妹が言った。
しかし、ばばは「0になっても数秒後には又数値が戻る」
今までのパターンだと信じていた。
妹が「母ちゃん、呼吸していない」と言って、ワァ〜っと号泣した。
ばば達も、ベッド横に近づくと、さっきまでと違い
母の体は一切の動きを止めていた。
「お母さんが亡くなった!」と言う実感がこみ上げてきた。

「母ちゃん!、母ちゃん!」「お母さん、お母さん!」と
みんなで名前を呼び続けたが、母の体の何処も動いてはくれなかった。

当直の医師と看護師さんが駆けつけ、
5月17日、夜9時17分、母の臨終が告げられた。

それから怒濤の1週間が過ぎた。
この間のことは、明日から又少しずつ書いて、
記録に残しておきたいと思う。

 

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ばば
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