Eちゃ〜〜〜ん、忘れないよ〜

1月9日(月)曇り時々小雨
お昼2時前、パソコンの前に座っていると
玄関で何か物音がするような気がした。
宅配さんかな?と思いながら出ると、K兄が立っていた。
K兄は、ばばが大好きな従兄弟姉さんEちゃんのご主人だ。

大きな紙袋を足下に玄関に立っておられるK兄。
その姿を見ただけで、ばばは顔を覆って泣き出してしまった。

大好きな従兄弟姉さん、Eちゃんが他界されてもうすぐ1年になる。
去年の¹月16日、たまたま、ばばが留守にしていた時
Eちゃんはばばの家に来てくれて、
きれいな押し花の額を届けてくれていた。
その夜、額のお礼がてら電話し、
話したのがEちゃんとの最後の会話となった。
今でも、あの日留守にしていたことが悔やまれる。

それから2週間も経たない朝、Eちゃんは急に具合が悪くなり
帰らぬ人となってしまった。

もの凄い才女で、三味線・大正琴は師匠級の腕前で
そのほかにもカラオケ・押し花などいろいろな趣味を持ち
いくつになっても学び続けるEちゃんだった。

家業はお餅屋さんで、早朝からご主人のK兄と二人で
餅米粉と黒糖が主原料のお餅をゲットウの葉に包んだ「カハムチ」・
他に「よもぎ餅」「アンバ餅」、黒白二色の見た目から鯨と似ていたのか?
「グンジャ(鯨の方言名)餅」、普通の「白餅」等を作り、
車で全島中に配達し、「お餅」と言えば「Y製菓」と言われるほど
ファンも多かった。
これらのお餅の生地の準備や、袋・容器詰めなど
超多忙な中でたくさんの趣味を持ち、楽しんでいたEちゃん。
Eちゃんの実のお姉さんでさえ
「E子はいつ寝ているんだろうと思うほどだった」と
ばばに話したことが何回かある。
ばばには、とても真似できない。

今にして思えば・・・・・約1年前のあの日
「ムシの知らせ」でもあったのだろうか?
「記念に・・」と言うような言葉を添えて
「押し花の額」を渡したそうだ。
Eちゃんの顔が、何故か寂しそうだったと、その日じじは話した。
Eちゃんは、あの日、ばば達に最後のお別れをしに来てくれたのではないか?
今でも、そう思われてならない。
だから、あの日、留守にしていたことが未だに悔やまれるばばなのだ。

今でも、ばばは毎朝、仏壇のお水を代える時、
しぜんにEちゃんの「押し花額」に目が行く。
又、パソコンに向かっているときも、ふと左側を見ると
「押し花額」が目に入る。
オレンジ色のコスモスが押し花にされ、センス良く配されている。
「Eちゃん」と呼ぶと、Eちゃんが応えてくれそうな気がする。

Eちゃんと、ばば。
年は10歳以上違う。
でも、何故か小さい頃から「Eちゃん、Eちゃん」と
友達を呼ぶような感覚で呼んでいた。
ばばが結婚する前のばばの家族全員がEちゃんには
言葉に尽くせぬほどお世話になった。

いつまでも忘れられないのが、ばばの両親に対する
Eちゃんの心遣いだ。
当時70代後半になり農作業もやめていた、ばば両親に
Eちゃんは、お仕事を与えてくれた。
Eちゃんが畑で刈り取った大量のヨモギを運んできて、
両親はヨモギの葉を1枚、1枚摘むのだ。
このヨモギは、もちろんEちゃんの作る「美味しいヨモギ餅」の原料の一つ。
何にもすることが無い、ばば両親は色々会話をしながら
楽しそうにヨモギの葉を摘んでいたっけ。。。。
Eちゃんは、ヨモギの葉を摘む両親に「バイト代?」までくれていたの。
何にもせず、ごろごろ日過ごすより
夫婦で楽しく会話しながら働く。
そして、自分たちが摘んだヨモギの葉が美味しいお餅の原料となる。
80歳手前のばば両親も「Y製菓」の1社員だったんだね。
両親に生き甲斐を与えてくれて本当にありがとう・・・・Eちゃん。

Eちゃんは、器用で、頭が良かった。
だからこそ、いろいろな芸事も達人だったんだよね。
約1年前のブログにも書いたけど、
ばばが、車の運転免許をとった時も
Eちゃんが試験に出るコースの道順を「替え歌」で教えてくれたから
無事、1発で合格できたと今も思って感謝している。

Eちゃんには感謝しても仕切れないほど恩がある。
何にもお返しもできないけれど、
せめて毎朝Eちゃんの「形見となってしまった押し花額」に
「ありがとう」の気持ちで合掌しようと思っている。
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背中をかがめて玄関に立つK兄を見ていると、
涙が止まらなくなってしまったが
「これから兄妹4名、あるお宅で落ち合う」と
自分で車を運転して、その集合場所へ向かわれた。
その車を見送りながら
「K兄、Eちゃんの分までも元気で長生きして下さいね。」と祈るばばだった。


 

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