「今日は何の日」を聞いて
12月4日(日)曇り時々晴れ
今日は天気が悪くなると思っていたら、何の、何の。
陽差しも強くて室温30度近くまで上がって、
じじは昼間、扇風機をつけていたんだって
黒雲もあるけど、青空も見える徳之島でした。
いつ頃からだっただろう?
ばばは、寝る前、朝起きてから、3度の食事中、家事をしながら・・・ラジオを聞く。
色々な番組があるので、悲喜こもごもだが、今朝、NHKの「今日は何の日」
という番組を聞いていたら「破傷風血清療法の日」だって。
初めて聞いたなぁ。
破傷風血清療法の日は、1890(明治23)年の12月4日、
北里柴三郎とエミール・ベーリングが、破傷風とジフテリアの血清療法を発見したことから
始まったんだって。
ばばも、実際、半世紀ほど前、破傷風になって危うく・・・という体験をした。
ばばの場合、抜歯後、出血して、半日くらい経っても出血が止まらず
原因が分からないまま、入院していた。
当時、次女が誕生して、暫く経った頃だった。
それより少し前、ばばの知っている方が3名、破傷風で亡くなっていた。
まさか、破傷風とは分からず、続く高熱で、仕事も休み、苦しんでいたら
たまたま上司が「敗血症かも知れないから、もう一度病院行った方が良いよ。
と勧めてくれた。
たまたま、その日は医療巡視船が来る日だったので
海岸まで行って診察して貰ったら「すぐ病院行きなさい」と言われた。
当時、加計呂麻で救急車も無く、自家用車も持って行ってなかった。
おまけに小さな船を貸し切って、海を渡らないと、治療を受けられる病院も無かった。
上司は、すぐに集落の車を持っていた人にお願いしたり
船を貸し切って、色々な方面に手を回してくれ、じじも仕事を休んで
ばばに付き添って、病院まで付いてきてくれた。
しかし、運が悪いことに、病院の先生が出張中で病名も分からないまま
ばばは、入院、じじは一旦海を渡って、又帰ろうと港に向かった。
そしたら、ほんの数分違いで船が出た後で、じじは病院に引き返してきた。
加計呂麻の、ある方に1才くらいだった次女を預かって貰っていたので、
じじは、帰ろうとしたのだが・・・・
夕方になり、ますます熱は上がり、抜歯後の痛みも強くなり
その内、意識も朦朧となり始めた。
と、運の良い事が起こった!
出張中だった先生が帰ってこられ、「破傷風だ」ということが分かり、彼方此方へ緊急手配。
近くでは血清も無くて、名瀬市の病院まで連絡して
パトカーやタクシーなどがリレー方式で、名瀬市から瀬戸内町まで運んで来てくれたそうだ。
その間、じじは職場や徳之島に連絡を入れ、父と姉も船で来てくれた。
ばばは、真っ暗な部屋に入れられていたが
後で聞くと、刺激を与えないためにの処置だったらしい。
意識を失ったまま、どのくらい時間が過ぎただろう?
夢を見ていて、何故かばばは、両岸に花が咲き乱れる、大きな川を渡ろうとして、
大好きだった叔母が必死で止めてくれたり、
又、真っ黒い装束の人物4人が、ばばを大きな黒い布の真ん中に寝かせて
力一杯、上の方へ放り投げようとして、それも叔母が
ばばに向かって「来るな!来るな!」と大きく手を下へ振って追い払う動作をした。
叔母は、既に亡くなって何年も経っていたのに・・・・
夢から目を覚ましたら、姉と父が枕元に立っていて吃驚した。
まさか、親兄弟が島から駆けつけるほど、ばばの容態は切羽詰まっていたとは。
日に日に体調も回復し、数日の入院を経て、無事、退院して職場復帰も出来た。
上司や同僚、集落の方々、大好きだった叔母、家族など、みんなのおかげで
ばばは、こうして今も元気に生活できているんだね。
周囲の方々への感謝の気持ちも大きいけれど
今朝のラジオを聞いていて、北里柴三郎とエミール・ベーリングが、
破傷風の血清療法を発見してくれていたからこそ・・・・と思った。
一度失いかけた命、沢山の方々の力で助けて貰った、たった1つの命。
考えてみたら、日々の暮らしでも、多くの方々に支えて貰っているからこそ成り立っているんだよね。
ありがたいですよね。