ありがとう

2月5日(金)晴れ

クワズイモ

※画像は過日、運動公園で撮影したクワズイモです。

 数日後、又行ったら、根っこから切り倒されていて残念!

 クワズイモと言えば、「孤高の画家」と言われる田中一村を思い出します。

撮影に出かけるじじが「今日の空のきれいな事!雲ひとつ無いね」と言た。

本当に真っ青な空!

お昼前後から雲が出て来たけど、それでも穏やかな空。

やる気満々で、朝から色々頑張ったよ。

コンロや台所掃除、トースターやオーブンの掃除

その後、200グラムの昆布を水で戻して結び昆布にし

じじが出かけた後、圧力鍋で炊きあげた。

小分けにして冷凍しておけば、1ヶ月位大丈夫。

そして、今日は今までと、ちょっと違う炊き方でご飯も炊いた。

我が家は、もう、半世紀近く圧力鍋で炊飯する。

数日前、久しぶりに圧力鍋の取り扱い方を書いた冊子を読み返していたら

お米に給水させる時間や、圧力鍋で炊く時間も、ばばがやってる炊き方とは

微妙に違った。

そこで、今日は雑穀米も入れず、白米だけで、

説明書に書いてある通りに炊いてみた。

結果??炊く時間をあと2分くらい延ばして、

水も、もう少し多めにした方が良かったかな?と、反省。

ガスの火力なども微妙に違うだろうから、

これからも少しずつ工夫して、じじを唸らせるご飯を炊いてみよう。

今日2月5日は、じじ父の命日。

父が亡くなって丸8年。

もう、8年?と思ったり、まだ8年しか経っていなかったんだと思ったり。

思えば・・・・

父がいなければ、今のばばの生活は無かった。

と言うより、じじと結婚もしていなかったと思う。

じじと出会う前に、父と出会っていたのが今にして思えば、

ばばの運命?だったのかなぁ?

初対面の父は、眉とかキリッとしていて、一見恐そうに見えた。

しかし、実際は、こんな優しい人がいるんだと

年と共に思うようになった。

未だに忘れられないのは、ばばがじじと結婚する前

「ばばちゃん、教員になりたいなりたいと頑張って、

今の仕事をしているんだから、(仕事が辛い!きつい!やめたい)と思うまで

納得のいくまで、仕事続けて良いよ。子どもの世話は

母ちゃんと、私も協力するから」と言ってくれたのだ。

ありがたかった!嫁の仕事に対して、これだけ理解してもらえるなんて。

両親は、父の言葉通り、我が家の子ども達を生後数ヶ月から面倒見てくれた。

そして、朝早く家を出て、夕方遅くなって帰宅するばばを見て

じじにも「ばばちゃんも、あんたと同じように働いているんだから

ばばちゃんにだけ、家事をさせてはいけないよ。

手伝える事は手伝って上げなさいよ」と、言ってくれた。

そして、毎朝「行って来ます」と挨拶して出かけるばばを

母と2人で「気をつけて行っていらっしゃい」と送り出し

「ただ今」と帰宅するばばを「お疲れさん」と迎えてくれた。

じじ両親が近くにいなければ、ばばは好きな仕事も続けられなかったし

子育ても、昼間は1人で四苦八苦していたかも知れないと思う。

父は、努力家だった。

朝薄暗いうちに起きて、習字をし、母はその傍らで墨を擦っていたそうだ。

その後、畑に行き、農作業をし、それから仕事に出かける。

退職後も、ずっと書道、農作業、

神社へ通っての弓の練習を継続していた。

沢山獲れた野菜は、いつも、お隣近所や、ばば達に、分けてくれた。

我が家族を支えてくれた、じじ両親に、いつかはご恩返しをしなくちゃと

ずっと思っていたばば。

だから、退職まで2年残して退職した。

実家の両親には「定年まで頑張るから・・・」と約束していたけど。

ばばが退職した頃、じじ両親は元気だったけど

その後、あんなに元気だった父も、体調を崩して入院する事もあった。

長期入院した時は、午前中母が父を見舞い食事の介助、

午後は、じじが、夕方は、ばばが毎日病院へ通っていた。

それから数年後、永遠のお別れの日を迎えたが

ばばは、未だに「もっと、もっと、両親の事をしてあげられたら良かったのに」

と思う事が時々ある。

じじが「ばばは、充分やってくれたよ。後悔する事なんか無いよ」

と言ってくれるのが救いではあるけれど。

「父の恩は山より高く、母の恩は海より深い」と

ばばが子どもの頃、実家の両親が言っていたけれど

じじ両親、自分の両親を見送った後、「本当に、あの言葉通りだ」と実感した。

両親にお世話になった分の万分の一もお返しは出来なかったけれど

「親への恩返しが出来なかった分も、自分の子ども達の支えになれるような

親でありたい」と常日頃思ってはいる。

今日は、お墓へ行きお参りをし、又家でも仏壇にお線香を灯し

じじ両親と、自分の両親に感謝の気持を伝え、頭を垂れたばばです。

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