改めて・・・
12月15日(火)曇り
今日は、朝一で長女に「誕生日おめでとう」メールをした。
女の人って、家族の誕生日とか、「○○記念日」とか
良く覚えているのかなぁ?
何日か前から、「15日は長女の誕生日」ということが頭にあり
メールしてから仕事開始しようと決めていた。
じじと結婚して半年後に加計呂麻に引っ越し、
長女を授かり、徳之島へ帰って出産。
普通なら、自分の実家に帰って出産するのだろうが
ばばは、じじ両親にお世話になりながら出産した。
じじ両親と同居し、1日中、何の仕事をするわけでもなく
出産を待っていた。
じじの実家からなら、病院へ歩いても行けるけれど
ばばの実家から病院は遠いし、
又ばば両親は、じじ両親より高齢でもあったので
じじの実家に居候していた。
いよいよ出産という日は、晴れてはいたが少し寒かった。
昼過ぎから、お腹が痛くなり始めた。
いつでも病院へ行けるように、義父も家で仕事をしながら
待っていてくれた。
義母は「温かい物を食べて、体を温めてから病院へ行きなさい」と
温かいうどんを作って食べさせてくれた。
その後、義父の運転する車で病院へ。
夕方5時前後に病院へ行き、夜8時前に長女が誕生。
初めての出産で、ばばは殆ど覚えていないが
娘がなかなか産声を上げなかったとか
あまりに痩せすぎていて、じじ両親や
自分の両親や姉は大分心配したとか、後から聞いた。
骨格は大きいものの、
あまりに痩せている赤ちゃんを見た義父、
じじに、電話で、こう言ったそうだ。
「この子は、元気に育たないかもしれないから
君は帰ってこなくても良いよ」って。
もちろん、じじは翌日の船ですぐにすっ飛んで帰って来たが。
誕生直後の娘は「ヤセゴロビッキャのようだった」と
義父が何回か話したことを覚えている。
「ヤセゴロビッキャ」とは「痩せた蛙」という意味だが
痩せて手足の長い娘を見て、家族の誰かが言ったんだろうね。
生まれた時は家族を心配させた娘。
加計呂麻で、当時は赤ちゃんを預かってくれる方も
施設もなかったので、じじ両親が徳之島で育ててくれた。
後になって考えたら、生まれて3ヶ月足らずの我が子を
ばばは、よくも手放せたなぁ・・・思う。
それ以上に、じじ両親が50代後半だったとは言え
生まれて間もない孫を、よくぞ育てて下さったなぁと思う。
じじ両親は「自分たちだけの孫ではないから」と
毎週末、ばばの実家へも長女を連れて行き
ばば両親にも会わせてくれていた。
本当に良い義両親に出会えたものだと感謝の気持ちしかない。
「ばばちゃんが、一生の仕事として選んだ大好きな仕事だから、
思い残すことがないように続けて良いよ。
父ちゃんと、母ちゃんは、いくらでも協力するから。
仕事がきつくて続けられないという時は、
いつでも辞めて良いからね。」と言ってくれた義父。
そして、言葉通りに、働くじじとばばを、ずっとサポートしてくれた。
何千回、何万回、お礼を言っても言い足りない。
今朝、ばばからのメールへの娘の返信に
「今は亡き、おじいちゃん、おばあちゃんの事を
いつも胸に・・・」という一文があったので
ばばも改めて「じじ両親への感謝の気持」を再認識した日でした。