ありがとう

11月14日(土)雨
今朝は、携帯の緊急地震速報メールで飛び起きた。
ラジオのスイッチを入れ、テレビもつけて情報を見る。
高さ1メートルの津波が来るかもしれない津波警報も字幕に・・・・
自宅設置のライブカメラで海の様子を見る。
普段と変わらず、安心。
何事もなく、午前中過ぎた。
今後も何事も起きませんように・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お昼。
さぁ、今日は何食べましょ。
昨夜から準備してあったから、余裕、余裕。
じじにはカレー。
ばばは、「なんちゃってクラムチャウダー」。
ただ、ルーが変わっただけ。エヘヘヘ。

そうそう、昨朝、電話が鳴った。
出ると、8月まで我が家のご近所に住んでおられ
今は都会で暮らすお子さん達の所へ引っ越して行かれた
Tおばちゃんから。
開口一番「ばばちゃ〜ん、喪中欠礼のはがきが届いたから電話したの。
あの優しいSお母さん(じじ母)が亡くなったって、
今でも信じられないけど、あなたの葉書を見て、本当に亡くなったんだなと
思ったら、悲しくなって。」と。
そして、「私はね、ばばちゃんが(私の今があるは、お義父さん、
お義母さんのおかげです)と言った言葉が忘れられないの。
あなたは、本当に偉いね。お義父さん、お義母さんをきちんと看取って。
これからは、じじさんを大事にしてあげてね。私が島にいた時
じじさんは、いつも私の愚痴を黙って聞いてくれて、有り難かった。
あなた方夫婦には、本当にお世話になって・・・・」と
身に余る優しいお言葉。

義父と義母は晩年病院で過ごしたので、
ばばが日に数回病院へ通っているのを見たTおばちゃんが
ある日「ばばちゃん、偉いね。」と言って下さったので
「いえ、これくらいなんでもないです。
お義父さんと、お義母さんが色々助けてくれたから
今の私の家族があるのですから」と答えた言葉を
未だに覚えていてくれたらしい。

じじ両親の協力が無ければ、ばばは結婚後すぐに仕事も辞めていたと思う。
小学校1年生の時から「なりたい、なりたい」と願っていた念願の職業について
5年目でじじと結婚。
その時、義父が言ってくれた言葉をばばは一生忘れないと思う。
「ばばちゃん、これからの時代は女の人も働く時代になると思うから
あなたが天職とも思っている今の仕事、続けたかったら続けなさい。
母ちゃんと2人、出来るだけの協力はするから。
でも、もし、辛くて辞めたいと思う日が来たら、
いつでも止辞めて良いからね」と言ってくれた義父。
その言葉通り、じじとばばが加計呂麻で仕事をしていた時
子供を預かってくれる方がいなくて迷っていたら、
生後3ヶ月の長女を徳之島へ引き取って義母と2人で育ててくれた。
長女が3歳になるまで、じじとばばは加計呂麻にいたのだが
1歳違いの次女も、ばばが破傷風になったりしたので
徳之島へ引き取り、長女と一緒に育ててくれた。
じじとばばが徳之島へ帰っても、日中は仕事で留守にする、じじとばばに代わり
じじ両親が、子育てをしてくれた。
ばばは子供を産んだだけで、育ててくれたのは、ほぼ、じじ両親だ。
じじ両親がいたからこそ、ばばが大好きな仕事を続けられたというのは
こういう経緯からだが、義父は先見の明もあったと思う。
ばばが就職した頃、女性は結婚したら家庭に入るというのが一般的だった。
その時、ばばに大好きな仕事を続けさせてくれた、じじ両親。
本当に、感謝してもしきれない。
2年前と今年、じじ両親は相次いで亡くなったけれど
仏壇の前に立てば、穏やかに笑う両親の遺影がある。
じじには憎まれ口ばかりきくばばだが
じじ両親には、素直に「ありがとうございます」と頭を垂れる。

Tおばちゃんの電話で、じじ両親のありがたさを再認識したばばだった。

都会へ引っ越して行かれて3ヶ月。
事ある毎に電話をくれて、じじとばばのことを気遣ってくれているTおばちゃん。
都会では、島のような近所付き合いもすぐには出来ないかもしれないし
時には島のことを思い出して寂しがっているかもしれないTおばちゃん。
でも、電話の声はいつも明るく、お孫さんやお子さん達の事など
楽しそうに話して下さる。
いつでも前向きに物事を考え、実践していたTおばちゃん。
ばばも、見習いたいなと思う。
Tおばちゃんと、次会えるのはいつかなぁ?
会いたいなぁ〜。

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