故郷の砂浜、他
10月14日(日)曇り時々小雨
今日は、自分の用事で午前中出かけた。
出かけた先で、実家集落の浜辺の話等を聞いた。
ばばも、数日前のブログに書いたけど
ばばが子供の頃、浜辺は何処までも続く砂浜だった。
その砂浜に無数の小さな貝殻が打ち上げられて
「貝殻の道」のようだった。
又、ホンダワラや名前も知らない海藻もたくさん打ち上げられて
茶色の道を作っていた。
ばばは、飼っていた鶏の卵の殻があまりに薄かったので
浜へ行って貝殻をカゴいっぱい掻き集めて背負ってきて
その貝殻を細かく砕いて鶏にあげていた・・・・と先日書いたよね。
ところが、今日聞いた話では貝殻を買う業者がいたそうだ。
貝殻だけでなく、小さな石ころや砂利なども買う人がいたんだって。
貝殻は何の目的で過分からないけれど、
砂利はコンクリートの原料になったのかな?
当時は、今のような重機などなかったので
人間の力で生コン用の砂利なども集めていたんだろうね。
ばばは、落花生の皮をむき、「一升剥いたらいくら」とか
桑の実を集め、その種だけを集めて
「杯いっぱいいくら」とかで売って、お小遣いにしたことはある。
でも、貝殻を売ったことはなくて、今日初めて聞く話だったのでびっくりした。
当時知っていたら、ばばもお小遣い稼ぎ頑張ったのになぁ・・・・
この砂浜では、12月14日には
赤穂浪士の討ち入りと関連づけてか?「吉良の首探し」というゲームなども
行われていたんだって。
今で言うなら「宝探し」で、砂浜に埋めたお菓子などを
子供達が探して楽しんでいたらしい。
ばばは、これも記憶がない。
父が正月前に砂浜へ行き、牛に白砂を運ばせて
庭に撒いて、お正月を迎えたのは今でも覚えている。
ばばが子供の頃は砂浜もだいぶ広かったけれど、
年々、砂浜が狭くなってきているような気がする。
この海はね、そこが渦巻いているような流れになっているので
海遊びをしている人が流される「危険な海」でもあったんだって。
この砂浜を少し北へ進むと、ばばの好きな「フンニャトゥ浜」だ。
この浜へは母と何回も通った。
何をしに言ったかというとね、大根を洗いに。
収穫したたくさんの大根を大きなカゴに背負って「フンニャトゥ浜」へ行き
海水で大根を洗って、その大根を大きなカメにつけ込んで
「自家製大根の漬け物」を作っていた。
味噌味と、塩味と二種類の漬け物を作っていたよ。
カメといえば、当時各家庭には大小様々な大きさのカメがいくつもあったよ。
豚肉や、漬け物の保存用、水瓶としても使っていた。
ばばの家の水瓶は大きいので、数十回水を担いできて入れなくては
満杯にならず、又水瓶は1個ではないので全部の水瓶を満杯にするのに
何十回、泉と我が家を往復したことか・・・・・
今、ばばの実家にはもうカメはないけれど、
じじの両親宅には、今でも1個だけ水瓶があるよ。
その水瓶に溜めた水で、大工さん達は手を洗ったりしている。
幼かった頃はカメと言えば、「水担ぎの重労働」がパッと思い出されるが
今、両親宅に残された1個の瓶は、何だか貴重な物のように思える。
少しひびが入っていて、満杯にしたみずが少しずつ漏れてしまうけれど
大事に保存しておこうかな・・・・・
先輩から聞いた「砂浜の話」からだいぶ逸れてしまったけれど
「残しておきたい物」だけど、「だんだん消えていってしまっている物」が
身辺にはたくさんある。
独特な方言・貴重な動植物・・・・・
守れるだけは、みんなで力を合わせて守っていきたいね。