世間は狭い・・・他
3月7日(水)雨後曇り
世間って狭いですねぇ・・・・
じじが趣味のパソコン関係で情報交換しているTさんという方がいる。
その方は,島外在住だが,お名前は2年ほど前から知っていた。
ある日、じじが「Tさんは喜界島出身だよ」と言った。
喜界島・・・ばばが高校の3年間過ごした懐かしい島。
島外からの受験はばばひとりだった。
心細かったけれど、喜界島の方々はみんな優しかった。
すぐに友達もたくさん出来た。
その同級生の中にTさんという女生徒がいた。
すらっと背が高くて、美人だった。
同じクラスになることはなかったけれど、
じじが「喜界島出身のTさん」と言った時、すぐに
(ばばの同級生のご姉弟では?)と思っていたが定かではなかった。
夕べ、電話が鳴った。
ばばが出るとTさんからで、じじに用事があっての電話だったが
じじに引き継ぐ前に少しお話ししている中で
確かにばばと同級生のお姉さんがいると・・・・・
数十年前のばばの同級生の弟さんが、
じじと情報交換しているTさんだったんだ〜。
本当に世間は狭いなあと思った。
喜界島かぁ・・・懐かしいなぁ。。。。
これまでもブログに何回か書いたが、
なぜ?ばばが喜界島で高校生活を送ったかって?
それは、大学を卒業した兄が喜界高校への赴任が決まったから。
母の「喜界高校へ行って、兄さんと一緒に暮らした方が良い」と
いう一言で、ばばの喜界島生活はスタート。
今にして思えば、中学卒業してすぐに兄の食事の世話をしながら
洗濯や他の家事をしながら高校生活を送る・・・って
本当は大変なことだったかも。
でも、当時大変だと思うことはなかった。
ただ、失敗は数え切れないほどある。
洗濯した兄のワイシャツに錆を付けてしまい
どうしても落とせなくて、兄に何て言おうか考えながら
ハイターを付けたり,タワシでこすったりしたなぁ・・・
島からカマス入りで送ってくる籾を、近所から借りたリヤカーで
家から大分離れた港までもらいに行き、ついでに精米所へ運び、精米した物を
家まで運んだなぁ・・・
当時、兄は車もバイクも持ってなかったし、
土・日も学校へ行って仕事をしていたので、
ばばが、いろいろな事をしなければならなかったんだよなぁ。
「女子高生がリヤカーでお米を運ぶの図」。
今なら絶対見られないだろうなぁ・・・・
又、ある時は,友人から借りてやっと乗れるようになった自転車で
港まで荷物もらいに行った帰り、道路のでこぼこにタイヤをとられ
自転車毎ひっくり返ってしまって、足のふくらはぎに大怪我をしたこともあった。
あれ以来、怖くて2度と自転車には乗るまいと思い今日に至っている。
お風呂も家にはなくて、少し離れた銭湯まで通っていた。
時々、同級生のお母さんが「お風呂にいらっしゃい」と呼んでくれることもあった。
たまぁに兄の同僚先生方が我が家に来ることがあった。
ビールや,お酒を出したと思うけど、おつまみは何を出していたのだろう・
料理と言っても、中学卒まで味噌汁・卵焼き・そうめん汁・野菜炒め・焼き魚などは
出来ただろうけど、今のような情報社会でもなく、栄養知識もなく
レシピもなく一体どんな料理を作っていたのだろう?
ただただ毎日必死で3食作っていたはず。
母が作ってくれた食事を思い出しながら悪戦苦闘していただろうなぁ。。。。
兄と自分の分、お弁当も作ったけど、おかずは何を入れたのだろう?
きっとソーセージの炒めたのとか、卵焼きと野菜炒め・缶詰など入れていたのかな?
当時奮闘していた自分を思うと,何故か愛おしくなる。
そして、兄に申し訳なく思う。
だって、家に遊びに来た先生方に
「おい、自分だけ美味しいの食べてるんじゃないの?そんなに丸々太って・・・
お兄さんは、あんなに痩せて。。」って言われた。
そんな時、ばばはひどく傷ついたけど、何にも言えなかった。
事実そうだったから。
今だったら、栄養も考えて美味しい料理を兄にも食べてもらえるのに、
その兄は,もういない。
24年前に突然の病で急逝した兄。
いっぱいお礼を言いたかった。
謝りもしたかった。
出来ないまま、永遠の別れをしてしまった。
でも・・・・
高校3年間、兄と暮らしたことでたくさんのことを学び、
又自信も付けられた。
小さい頃から,兄姉一甘えん坊で、サボりマンで、自立心のなかったばばだけど
家計のやりくり・人付き合い・勉強の仕方・料理もちょっぴり学べたからね。
じじと結婚して,三姉妹を授かり
娘達が大きくなった時、いつも思っていた。
「こんなダメばばが出来たんだから,この子達はきっと出来る」って。
今じゃ、娘達に教わることが多いけどね。
ばばは思うんだ〜。
苦労したことは、いつか倍の幸せに変わって戻ってくるとね。
じじの友達,喜界島出身のTさんからの電話で
数十年前の、ほろ苦く切ない青春の思い出が蘇ってきたばばだった。