腕時計を外して投げ・・・花を投げ・・・・・・

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10月4日(月)晴

今日は空港へ用事があり、11時に家を出た。

車を運転する目に飛び込んでくる「アメリカ軍基地移設反対」の看板。

亀津から空港までの間に何枚くらい設置されているのだろう?

100枚とまではいかないと思うが、相当数の看板だ。

色々な文言がある。

ストレートに「基地反対」というのがあるかと思うと

「奄美群島、日本復帰の父」と言われる泉芳朗の詩を書いてあるのもある。

昨日、伊仙方面へ走った時は「ご先祖様 どうぞお力を」と書いてあるのもあった。

反対看板が圧倒的に多い中、賛成派の看板も何枚か掲示されている。

「東京直行便を」とか、「基地誘致で経済浮揚を」とか「今がチャンス」のような文言だったと思う。

今、基地移設問題が政府の中でどのくらい進んでいるか分からないが

ばば個人としては戦争と関係のある基地移設には絶対反対だ。

最近ますます、その思いが強くなった。

その発端は、母がお世話になっている施設で90代のおばあちゃんの話を聞いたからだ。

このおばあちゃんをAさんとしよう。

Aさんは、若い頃、今回、基地移設予定地になっている浅間で働いていたそうだ。

朝5時に家を出て、7時に浅間に着き、兵隊さん達と一緒に氏名点呼を受け

その後、モッコ?なる物で石や土を運び空港周辺整備の作業をしていたそうで、

午前10時に5分間、昼食後15分間、お昼3時に5分間休憩がある他は

ずぅっとモッコを担ぎ続けたそうだ。

Aさんの話によると、特攻隊で飛び立つ若者達は、前日に鹿児島から浅間に来て

翌朝、飛び立っていったそうだ。

特攻機に乗り込んでから、腕にはめた腕時計を外して投げる少年兵がいたり

飛行機に乗り込む前「特攻花」と言われる花を摘んで

ジャンプするようにして投げる兵隊さんもいたそうだ。

笑顔で特攻機に乗る兵隊さんもいたけれど、泣きだしてしまう兵隊さんもいて

毎日のように近くで前途有望な若者が「お国のため」という名の下に

帰る当てなく飛び立つ姿には、涙が止まらなかったと。

特攻隊へ飛び立つ若者の話の他に・・・

ある時は、大将(大尉と言ったかな?)がハブを殺し、焼いて、それを磨り潰して飲んで

Aさん達にも舐めさせたそうだが「それは、生臭くて飲み込める物ではなかった」そうな。

ばばの父も「浅間飛行場の近くで働いていた」と話したことがあったけれど、

父からも、もっともっと徳之島での戦時中の様子を聞いておけばと悔やまれてならない。

90代のAさんから聞くまでは、徳之島から特攻隊が飛び立ったという

具体的な話は聞いたことがなかった。

もう、7,80年も前の話で今は施設にお世話になっているAさんなので

話が何処までが定かなのかは分からないけれど

ばばが、知人にAさんの話をすると

「ばばちゃん、そのおばあちゃんの話を詳しく聞いて書き留めていた方が良いと思うよ。

どこか放送局にでも連絡して話を聞き取ってもらった方が良いんじゃない?」とも言われたが、

ばばは、そこまでは・・・と躊躇してしまう。

徳之島にも「島の戦争の記録」などがあるのだろうか?

図書館へ行く時に調べてみなくちゃ・・・・

今日も空港へ行く途中・・・60数年前に「お国のために」と

若い特攻兵が飛び立った滑走路を見ながら胸迫るものがあった。

飛び立つ前に腕時計を投げた兵隊さん、笑顔で乗り込んだ兵隊さん、

乗る前に泣き出した兵隊さん、それぞれの胸に去来した物は何だったのだろう?

彼らの、いや、その他無数の犠牲があって今の私たちの生活がある。

二度と戦争は絶対してはいけないし、いくら経済浮揚のためとは言え

戦争関係の施設など作って欲しくはない。

90代のAさんお話が何処まで正確な記憶なのか分からないけれど

ばばは、これからも施設へ行く時は、

Aさんから戦時中のことなどを、もっと聞いてみようと思っている。

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