天国の兄さんへ

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9月19日(日)

今日は大好きだった兄の、命日だ。

まさか49歳の若さで兄が天国に召されるなんて・・・

忘れもしない、昭和63年9月16日。

ばばは、道徳の授業をしていた。

たまたま「たった一つの命」「かけがえのない命の尊さ」について

子ども達に話していた時電話を取り次がれた。

普通は授業中に電話を取り次がれることなんて無い。

異様な胸騒ぎをおぼええ電話のある部屋へ走った。

電話の内容に、ばばは失神しそうだった。

鹿児島にいる兄が出勤前に倒れ救急車で運ばれたという。

すぐに、休暇届を出し姉と一緒に飛行機で鹿児島へ飛んだ。

病院へ直行したが、すでに兄の意識はなく気管切開をされていた。

それから3日後、みんなの願いむなしく兄は49歳で天国へ旅立った。

ばばと10歳違いだった兄。

女姉妹3人の中に男の子は兄一人。

我が家の「希望の星」だった兄。

努力家で、温厚で、いつでも家族のことを考えてくれていた。

貧しかった時代、兄は家族の期待を背負って大学へ進み念願の高校国語教師になった。

兄がK高校へ赴任した年、ばばは高校受験だったが

両親の「K高校へ行って、兄さんの炊事の世話をしながら高校へ行けば親も安心する。」

という一言で志望校を受験2ヶ月前に変更、予想だにしなかったK高校生になったばば。

中学三年生まで、ズボラで、ぐうたらで、

(いかにして家の手伝いをサボろうか)ということばかり考えていたばばが

入学直後から兄の身の回りの世話をし、食事の準備をし・・・・・

まるで高校生兼一主婦として奮闘の日々が始まった。

少しでも安く買い物をするために隣の集落まで歩いて往復した。

当時、初めて「カッパえびせん」が発売されたような気がする・・・

お風呂も隣の集落の銭湯まで行っていた。

そんな生活の中で、学校へ行けば、ばばは兄のことを「N先生」と呼ばなければならなかった。

極力兄と接近しないように校内を歩いた。

たまに廊下などですれ違うと兄はにこっと笑って、すぐに顔をそらして通り過ぎた。

兄は現代国語と古典を担当していたが、ばばの学年には古典を教えていた。

ある日、兄がばばに言った。

「古典のテストで、お前が悪い点数をとると、兄さんは恥ずかしい。

かと言って、満点とると問題を教えたと友達から思われるかもしれない。

だから、なるべく良い点数をとって、その点数をキープしなさい。」と。

ばばは国語は大好きで。将来中学校の国語教師になりたいと思っていたので

なるべく兄の期待に添えるように頑張った。

兄妹で、同じ学校で、兄は教師、妹は学生・・・・何とも妙な気持ちになることもあった。

ただ、「兄に迷惑をかけるような言動はいっさいしないぞ」と固く心に誓っていた。

k高校は島内唯一の高校で学生のほとんどが島内の中学校から来ていた。

ばば一人が徳之島からの入学だった。

先生の妹だから・・・・余所からたった一人で来ているから・・・・・でもなかっただろうが、

同級生・先輩・先生方からも、とても良くしてもらった。

入学後しばらくは、夕方になると徳之島の両親が恋しくていつも泣いていた。

兄はいつも帰るのが遅かったので、夕食の準備をし、一人で宿題をしながら兄を待った。

そんな時、ホームシックになって泣きべそかいていた・・・・

高校生になっても、幼かったんだね、ばばって。

 

そんなばばが何時も思うことがあった。

(兄さんはいつ寝ているんだろうか??)と。

二部屋しかない町営住宅で住んでいたが、ふすまで仕切られた兄の部屋は

夜、ばばが何時に目を覚ましてもいつでも明かりが点いていて

机に見かっている兄の後ろ姿が見えた。

 

ばばは青春まっただ中。

食べれば食べるだけ体は風船のように丸々太っていった。反対に兄は・・・・・・

兄の同僚の先生方に「おい、○子、自分だけ美味しいの食べて

お兄さんに美味しい食事作ってるか?」と良くからかわれた。

今から思うと、兄に本当に申し訳なかったと思う。

栄養的な知識もなく、ただ自分が好きな物を作っていたような気がする。

そんな妹が作った弁当を3年間食べ続けた兄。

文句一つ言われたことはないけれど、もう少し料理がうまくできていたら・・・・

「美味しいっ!」って舌鼓うってもらえる料理が作れていたら・・・・・

ごめんね・・・・兄さん。

今思うと、切なくも楽しい高校3年間だった。

大学受験を控えた時、ばばは中学校の国語教師になるために学べる公立の短大と4年制大学を選んだ。

担任の先生も勧めてくれた。

しかし、兄は「お前の今の実力では希望している国公立はダメだ。」と・・・・・

兄の言うことはいつでも正しいと信じていたばばは、日本全国の短大、4年制大から

1,中学校の国語免許がもらえる。

2,学費が安い。

この二つの条件に当てはまる学校を選び出した。

4年生大は県外、短大は県内で各一校ずつ選んだ。

4年制大学に行くか、短大に行くかで随分迷ったが、

当時就職率ほぼ100%だった短大に自分で決めた。

そして、高校3年間学費を出してくれた兄と、

「先生ほど良い仕事はない」と呪文のように言い聞かされた両親への恩返しのためにも

一生懸命勉強して大学に合格し、教師になるんだと強い気持ちで受験し、合格した。

ばばは、最初の第一希望だった公立大学に未練はあったけれど

母が教えてくれ、ずっと座右の銘の一つとしてきた「鶏口なるも牛後なるなかれ」で

鶏口になるべく頑張るのも、又一つの道かな?と思い公立大学は諦めた。

あの時の選択は間違っていなかったと今でも思う。

ばばは、その後自分の夢を実現させ、両親の元へ帰った。

そして、ある程度親孝行もできたと思っている。

兄は・・・ばばが高校を卒業し、2年後に結婚した。

そして奄美市の高校へ転勤。

その後、鹿児島へ転勤となり二つの高校で勤め、4月から県立図書館勤務となった。

地方奉仕課という部署で、これからはたくさんのおじいちゃんや、

おばあちゃんの為にも頑張るとばばに話した兄。

貧しい生活の中から兄を大学まで行かせてくれた島の両親への思いを胸に、

地方のたくさんのおじいちゃん、おばあちゃんたちのために頑張ろうと張り切っていた矢先・・・・・

新しい職場に移って半年しか経っていなかった9月。

当時は9月15日が「敬老の日」だったが、

倒れる前日には故郷の敬老の方々へ、兄は祝電を打ってあった。

敬老の日の翌日朝、出勤の準備も整え、歯磨きをしていた時に倒れ、

3日後に帰らぬ人となった兄。

「これからが、苦労して大学まで行かせてくれた親と姉妹への恩返しの時」と語っていた兄。

そのうち、徳之島の高校へ異動し、両親を喜ばせたかったであろう兄。

49歳って、若すぎる。

まだまだ、やりたかったことは、たくさん、たくさんあったはず。

無念でたまらなかっただろね、兄さん。

兄が無くなった時、19歳だった一人娘は、結婚し今では中学生と小学生の

女の子ふたりのお母さんになっている。

兄さんは、一人娘の結婚式の晴れ姿も可愛い孫も見ることができなかった。

無念だっただろうね。

 

今日は、兄にとって初孫Mちゃんの運動会。

奇しくも、兄の命日。

義姉は先日から、孫の応援に行っている。

兄は目を細めてMちゃんの頑張りを天国から応援していることだろう。

兄さんが旅立ってから、23年。

兄さんの家族も、ばばの家族も、みんな頑張っているよ〜〜〜。

 

今朝、両親の仏壇の水を替えながら、ばばは祈ったよ。

お兄さん、お父さんやお母さんと一緒に、

これからも、ずぅっとずっと、天国からみんなを見守っていてね・・・って。

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