時間は止まらない
7月21日(火)晴れ
今日は焼け付くような陽ざしの徳之島でした。
18日夕方、悲しい知らせがあった。
幼い頃からお世話になっているお兄さんがお亡くなりになったと。
今は亡き、ばば兄と同年配で、兄亡き後、色々な面からばば両親を支えて下さったお兄さん。
地域のためにも色々な面で頑張って下さったY兄さん、
仮通夜、本通夜、告別式と沢山の方が参列下さり、
兄さんの人徳の大きさを感じた4日間でもあった。
実家集落へも2日間通ったが、集落でお悔やみとかあった時は
女性の方々が協力して、お茶の準備や色々手伝っている姿を見て
「結い精神」が未だに残っているなぁと、あらためて感じた。
ばばが子どもの頃から、「屋根の葺き替え」「田植え「稲刈り」「キビかさぎ(サトウキビ伐採)」
等々、集落中が協力し合っていた。
そして、豊年祭とか十五夜祭りとか、お正月行事なども
準備から開催、後始末まで集落総出で協力して賑やかに開催されていた。
あれから半世紀以上・・・・・
集落の小・中・高校生の数も激減し、若い青年達の数も減り
ここ数年は「集落の生き字引」と尊敬されていた先輩方も
次々とお亡くなりになって、寂しい限りである。
「コロナ禍」で、自粛、自粛の昨今だが、Y兄さんの葬儀には町内外から
多くの方々が参列して下さった。
ばばも、最近数ヶ月は、火葬場まで行く事は全く無かったが
今日、久しぶりに行くと、途中の道路が広くなっていたり、
しばらくの間で、色々変わっていてビックリした。
朝9時過ぎから、夕方3時過ぎまで、Y兄さんとの最後のお別れをして、
終わってから、実家のお墓参りもしてきた。
お墓から、周囲の景色を眺めながら
「いつまで、この山や川、畑のある風景が見られるんだろう?」と思った。
※この画像は、実家集落では無く、ばばの母校の花徳小学校です。
時代と共に変わりゆく、故郷・・・・
実家へ寄っても、両親もいない、兄弟姉妹もいない
同級生も、ほんの数名しかいない。
風景もどんどん変わっていて、2日前も寂しい風景を見た。
ばばが小学生の頃は、水道が無く、泉までバケツを担いで水を汲みに行っていた。
水を汲んで来なければ、飲み水も無い。
否が応でも、子ども達はバケツ2個に泉から水を汲んで担いで
何回も何回も家と往復した。
大きな松の木の下の坂道・・・
松ぼっくりが落ちていたなぁ・・・・
ばばの大っ嫌いな「松毛虫」と呼んでいた毛虫も道路に落ちてきていて
2個のバケツを担いだまま、その毛虫を避けて歩くのは大変だった。
嫌でも、家の水瓶がいっぱいになるまで水を運ばなければならなかったし
避けたつもりの毛虫を踏みつけてしまった時は、飛び上がるほど嫌だったが
担いでいる水を零したらいけないので、我慢して酒見落ちを上り続けた。
苦しい思い出しかない、集落の外れにあった泉。
その泉への下り口が、今では草藪になり、誰も足を踏み入れなくなって
大分長い年月が経っているような恐ろしいほどの荒れ地になっていた。
ばばが子どもの頃は周囲に畑も、田んぼもあったけど
今は、その面影さえ見つけることが出来ないほど荒れ果てている。
後10年後・・・・実家集落は、どのようになっているんだろう?
ここ数年は、お墓参りで実家集落へ行くたびに
何とも言われぬ寂しさを感じてしまうばばです。
今日は夕方になって、このブログを書いていますが
なかなか文もまとまらず、昨日に続き、取り留めもなく・・・ごめんなさい。