もう、27年・・・ありがとう!

7月16日(木)雨時々曇り

7月16日(木)雨時々曇り

クチナシ

大好きだった母が亡くなって、27年。

数日前からずっと、母のことを色々思い出していた。

母は、あまりに厳しかったので、中学生の頃まで

温厚で優しい父が大好きだった。

入学前から、いつも両親と一緒に田んぼや畑に行き

色々手伝わされていた。

一緒に畑仕事をしながらも「正直の頭に神宿る」とか

「天知る、地知る、我知る」とか「努力に勝る天才なし」とか

入学前のばばにとっては難しい言葉とかも色々教えてくれた。

当時は小学1年生で数字など習ったと思うけど?

ばばは、不器用で「3」をカラスが飛んでいるような形に書き

「4」は、カタカナの「カ」の形に、「8」は小さな○を書いて、

その下にもう一つ○を書いて、雪だるまのように書いていた。

そんなばばに、忙しい農作業や家事の合間をぬって、ばばの横に正座して

根気強く正しい書き方を教えてくれたのも母。

又、行儀にも厳しく、ある日、来客の前でばばが膝を立てて座ったら

テーブルの下で、母がが親指と人さし指で、ばばの太股をギュッと捻った。

お客さんの前だったし、声を出すことも出来ず、慌てて正座した。

その他にも色々と厳しくしつけられたので、高学年になる頃は

たまに、心の中で「鬼ばばぁ!!!」っと叫ぶこともあった。

いくら叱られても、反抗することは無かった。

厳しいことは厳しかったけど、以前ブログに書いたように

学芸会で黄色いセーターを着て舞台に立たなければならなかったのに

ばばは無かったので、諦めて出番を待っていたら

直前に、どのように調達したのか?新品の黄色いセーターを届けてくれた。

半世紀以上経っても忘れられない位、ありがたかった。

中学校に上がると、友達は前髪を伸ばして左右に分けたり

三つ編みにしたりもしていて、羨ましかったが、

母は「今は勉強する時。おしゃれは大人になってからいくらでも出来る」

と言い、横は絶対肩に届かない長さで、前髪は眉につかない長さだった。

高校進学の時も、直前になって、兄が新卒で喜界高校へ赴任することが決まり

ばばは、それまで目指していた島外の高校から、喜界高校へと進路変更した。

その時、母が「鶏口となるも、牛後となるなかれ」

「努力に勝る天才なしという言葉をはなむけの言葉にくれた事・・・・ずっと忘れられない。

中卒で、兄の身の回りの世話をしつつ学んだ高校の3年間。

両親が徳之島から送ってくれたカマス入りの籾が届くと

ばばはご近所からリヤーカーを借りて引いて、港の倉庫まで歩いて行き

カマスを受け取り帰宅。

その後は、必要に応じて集落内の精米所に籾を運び精米して貰っていた。

後々、母は「何て考えが足りなかったんだろう。

島で精米させてから送れば良かったのに。難儀させたね」とばばに謝ったことがあった。

第一志望校を諦め、兄の世話?をしながら兄が教える学校で学ぶ・・・・

当時は嫌だと思ったかも知れない。

でも、自分が社会人になり、結婚し、親となった時

母に言われ、教えられたことは何一つ無駄な事は無かったと思えるようになり

その時点からは、今まで以上に自分の両親を尊敬するようになった。

中卒で、喜界島へ行き兄と生活しながら炊事、洗濯、掃除をしていたが

ばばが大人になってからも、料理を苦に思わなかったのは、

あの3年間のおかげかなと思ったりする事がある。

自分の将来の進路さえも、小学校1,2年生で決めていたばば。

まだ「教師」という職業について、殆ど知らなかった年齢だったのに・・・・

当時、姉が教員をしていて、家庭訪問に行った先で

当時は超貴重品だった卵を数個、紙に包んだ物を貰って来た時、母が言った。

「先生って、良い仕事だよ。周囲から尊敬されるし・・・・卵も貰えて・・」と。

尊敬されるとか、意味も分からなかったが1個の卵をお汁に入れ

家族全員で分け合って食べていた当時、

ばばにとっては数個の卵が貰えるなんて、まるで夢のような話だった。

その日から、ばばは「大きくなったら先生になる」と決めた。

母に言われた言葉が、ずっと頭に残っていて、又、自分が国語が好きだったことから

教職を目指したとは思うけれど、ばばの人生、ほぼ母が教示してくれたような気がする。

もし・・・母の言う事を聞かず、何でもかんでも自由気ままに過ごしなが

中学校、高校と進んでいたら、今のばばは、いなかっただろう。

ばばは「あなたの尊敬する人は誰ですか?」と聞かれたら

迷わず「両親です!」と答えたい。

周囲に尊敬する人は、たくさんたくさんいるけれど。

自分の小さい頃の行動を、今思い出しても、兄弟姉妹の中でも一番我が儘で、きかん坊だった。

両親は、ばばに一番手を焼いただろうなと、ある時期から自分を反省し

ますます親への感謝の気持ちが強くなっていったばば。

ばばが、口に出して直接両親に感謝の気持を伝える事はは出来なかったけれど、

反抗的だった時期、母が良く言った言葉「親孝行、したい時に親は無し」。

本当に、この言葉の通りだったと悔やまれてならない。

もっと、もっと親孝行して、両親を喜ばせてあげられたはずなのに・・・・

自分の親に出来なかった分、じじ両親には・・・と努力はしたけれど

それも、思っていたことの数千分の一も出来たかどうか?

「親が子を思う無償の愛」・・・じじ両親、自分の両親は立派な手本を見せてくれた。

母が亡くなって27回目の命日の今日・・・・・

「親に出来なかった分、ご恩返しの意味も込めて

子や孫を大切にし、見守っていきます」と呟きながら仏壇で手を合わせた。

母の命日ということで、じじも仏壇で手を合わせ、ばば両親の写真をじぃっと見つめていた。

じじ、ありがとう!

今日は天気が悪くて、実家のお墓までは行けないけれど

明日以降、天気が回復したら、お墓の前できちんとお参りしてきます!

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ばば
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