約束守れず、ごめんなさい
4月14日(日)曇り
今日は曇天の徳之島。
じじが「天気は回復するよ」と言うので朝から沢山洗濯したけど
結局部屋干し・・・昼から晴れてくれると良いなぁ。
昨日のブログで、ばばは「母の言葉で仕事を決めた」と書いた。
就職しても、ずっと勤めるという思いは無かった。
それでも正式採用された年の卒業式で、
先輩が袴姿で壇上の校長先生の横まで卒業証書を運んだ。
その時「卒業式には袴姿で参加するんだ・・・」と思い、
帰宅後、母に「定年まで働くから袴を買って欲しい」と頼んだ。
両親は「良いよ」とすぐに聞いてくれ、姉が紺色の生地を買い
袴を縫い上げてくれた。
勿論、次の年から袴を着用した。
その袴・・・姉が縫ってくれてから約半世紀。
実際着たのは10回位。
ほぼ新品のまま、洋服ダンスに下げてある。
自分が一番なりたかった「国語教師」にはなれず、小学校の教師。
仕事は大変な事があっても、先輩や上司がいつも助けてくれ楽しかった。
子供達は純粋でかわいくて、無我夢中で過ごすうち・・・22歳の頃からだったかなぁ?
何故か「私は27才で、5才年上の男性と結婚する」と決めていた。
なぜ、27才なのかは自分でも分からなかったけれど、兄弟姉妹が全員5才差婚していたから
自分も5才年上の人と・・・と単純に考えていた。
そして、「結婚したら仕事は辞めて、旦那様を支え、尽くす奥さんになろう」
というのが理想だった。
それが、考えていたのとは違い、24歳の時、1歳違いのじじと結婚。
仕事も続ける事に・・・
それは、じじ父が「ばばちゃん、これからは女性も働く時代になるから
ばばちゃんが、辛い!もう、仕事やめたいと思うまでは働いて良いよ。
母ちゃんと私で、できる限り協力するから」と言ってくれた。
理想と現実は違う〜〜と思ったけど、義父の言葉は嬉しく有り難かった。
じじ両親に甘え、結婚後も仕事を続ける事になったばば。
海を渡って行った転勤先で、乳児を預ける事が出来ず
生まれて3ヶ月の長女を義両親に預け、次女も1歳半から預け仕事を続けた・・・
子供達と分かれるという事は、身を切られるように辛く、
まだ離乳してていなかった長女を、じじが徳之島へ連れて行った後は
娘の事を思うと、胸が痛くなり・・暫くは、さらしを胸に巻いて出勤していた。
親から引き離された、幼い娘達の気持ちを考えると、今でも泣きそうになる。
娘達には寂しい思いをさせながらも、じじ両親やじじの叔母、ばば姉など、
沢山の人たちに支えられながら、数回転勤をし、最後は母校勤務に。
母校で定年を迎えるなんて、予想だにしなかったので有り難くて・・・
自分の後輩達のために、精一杯頑張らなくちゃという思いで5年間勤めた。
あと2年・・・・という時の夏休みに、じじ妹が3月で退職すると言った。
妹の主人が定年退職するので、少し早いけど自分も退職すると・・・
え〜〜〜っ!と思った。
当時、じじは大病、大手術で一足先に退職していた。
義妹夫婦がやめたら、ばばだけが働く事になる。
迷った!
最後まで母校で働きたかった。
色々考えた末、夏休み中に上司にも相談し、退職の意を伝えた。
3月、人事異動発表で、ばばが退職すると上司が発表すると
同僚達から「え〜〜〜っ!」という声が上がり、ビックリさせてしまった。
クラスの子供達にも伝えた。
辞任式の日、いったん「帰りの会」をした後も
クラスの子供達は帰ろうとせず、色々な話を続けた。
「ばばちゃん、本当にやめるの?もう、学校来ないの?」と言う子もいた。
(ばばの名字にちゃんを付けて、呼んでくれる子供達も多かった)
「学校近いから、運動会とか学習発表会とか、又みんなの応援に来るからね」と伝えた。
退庁時刻が来て、ばばは実家のお墓に行った。
そして、墓前に手を合わせ「お父さん、お母さん、ごめんなさい。
約束通り定年まで働かず、今日で仕事を辞めました。
これからは、じじを支え、じじ両親を大事にして、今までのご恩返しをします。
これからも、ずっと見守っていて下さいね」と心の中で呟いた。
あれから12年余・・・・・
両親に約束した事、守れているかい?ばば。
じじを支えている?虐めてばかりいるんじゃ無い?
・・・・・・(無言)
でも、じじ両親へのご恩返しは、少しだけ出来たかな?と思っている。
あの時点で退職したから、じじ両親の手助けも少しは出来たと思っているから。
「これまでの人生に悔いは無い」と言うじじ。
ばばは「定年まで働くから袴を作って下さい」と両親にお願いしたのに
2年早く退職してしまい、約束を果たせなかった。
だから「ごめんなさい。約束を守れなくて」という思いはあるけれど
「悔い」と言うほどではない。
両親だって、「あの時点で辞めて良かったね」と言ってくれるだろう。
ずっと、ずっと、ばばを励まし支え続けてくれた、じじ両親に
少しだけでも恩返しできたから。