悔いは・・・
4月13日(土)曇り
今日も、自宅の片付け。
押し入れの中は片付いたので、ふと、上にある棚が気になった。
梯子椅子?に乗って、覗いてみると、紙箱が沢山積み重なっている。
「何だ?」と思い、開けてみるとフェイスタオルやバスタオルのセット、
更には毛布、コタツ上掛け等。
全て下に下ろして箱から出し、箱は即ゴミ袋に。
タオルやバスタオルなど、全て新品だけど、一部分黄色くなったりしているのも。。。
あぁ〜勿体ない!
でも、自宅で使う分には問題ないかと思い直し、先ずは洗濯しようと。
中にはデパートの包装紙のままの品もあり
(何で、これらの品から使わなかったんだろ?」と、今更ながら反省。
午前中終わったのは、押し入れ整理だけ。
明日以降、今度は掃除機をかけたり、雑巾がけをしたり、又忙しくなるなぁ。
昼食後、じじが「僕の人生に後悔は無いなぁ・ばばは?」と言った。
「1つだけ、後悔がある」と即答した。
「何?」と聞かれたので「定年まで2年残して仕事を辞めた事」と答えた。
ばばは、本当に子供の頃からあこがれていた職に就き
38年間のうち、辛い事もたまにはあったけど、楽しかったし、やりがいもあった。
ばばの実家は農家。
両親は「これからの時代、子供達には農業以外の仕事をして欲しい」と言っていた。
当時は、今のように機械化もされていないし、
黒糖やお米を作っても、お米は「供出米」とか言って、良い物は強制的に買い上げられ
自家用は売って残った、あまり上等では無いお米だった。
野菜も自家用は各家庭で作っていた。
色々な意味で、大変な時代だったが、ばばの兄は大学へ行き、高校の教員になった。
両親や姉ふたりは、兄の毎月の学費捻出のため、身を粉にして働いた。
ばばは年が離れていたので、田植え稲刈り、キビかさぎ、麦の収穫、養蚕の手伝い
ソテツの実の収穫等々は手伝ったが、山へ行って、木を切って来る・・・
と言う事などは経験が無い。
そんな時代だったから、今のように高校に全員が進学・・・という事も無く
中卒で島を離れる人も多かった。
ばばは、幼稚園に上がるか上がらない頃から
母が「先生という仕事は良いよ。卵なども貰えるし・・」と言い聞かされていた。
当時は、家で数羽の鶏を飼い、その鶏が産んでくれた卵を大事に大事に食べていた。
1個の卵を味噌汁に溶き入れて、家族全員で分けて食べていた時代。
そんな時代に、幼稚園で働いていた姉が家庭訪問の時、
あるご家庭から卵を数個、頂いてきた事があった。
ははが「先生になれば卵も貰える・・」と言ったのは、この事だった。
当時、徳之島に会社とか、店員さんが何名もいる大きなお店も無かった。
両親にしてみれば、毎月決まった現金収入のある「公務員」になって欲しかったのだろう。
でも、じじの話によると、当時、教員になったじじ父の給料はとても少なく
家族で食べていくぶんには足りなかったので、
朝早く、出勤前に畑へ行き、仕事から帰って来たら又薄暗くなるまで畑で働き
野菜等を作っていたそうだ。
ばばは、家族や親戚の方々と共に働ける農業も嫌いでは無かった。
まだまだ農業の本当の大変さを分かっていなかった子供時代だったからかなぁ。。。。
何回か、このブログにも書いているが「先生は良い仕事だよ」という
母の言葉がずっと頭の中にあって、「そんなに良いのかな?」と思うようになり
そのうちに「絶対先生になる!」と小学校低学年頃にははっきりと決め
学年が上がると共に、国語の勉強が面白くなり、大好きになり
「国語の先生になる!」と中学校では決めていた。
そのために進学もし、免許も取ったけど、当時、国語の教員採用は数が少なく
意に反して「小学校の期限付き臨時教師」からのスタート。
じじと結婚した当時も、ばばは「臨時教諭」。
結婚して2年後位から通信教育で色々な免許を取っていたじじを真似て、
ばばも一念発起、通信教育で小学校教諭や幼稚園教諭の資格を取得。
結局は国語教諭や司書教諭などの免許を生かす事は無く・・・
その後の30年以上、仕事を続けた。
続けるうちに、仕事が大好きになり
「この仕事を選んだのは間違いで無かった!」と確信もし、両親に感謝した。
もう少し後の時代なら、島でも色々な仕事があったかも知れないし
都会でも自分の好きな仕事を見つける事が出来たかも知れない。
母の言う通りの道を進んだという思いはあるけれど、悔いは無い。
と言いつつ、「悔い」では無いけど
「約束守れなくてごめんなさい」という思いはある。
文が長くなるので、明日又書きます。
※画像は友人宅のオーシャンブルーです。
日によっては60数個も一気に開花して、目を楽しませてくれます。