半世紀以上経って・・・
3月15日(水)晴れ時々曇り
毎月1日・15日は墓参りに行くことにしている。
今日は昨日までとしたら、青空も見える天気だったので
姉と2人で9時前に家を出た。
まず長姉の墓前で礼拝し、次に実家の墓へ。
小さな雑草がたくさん生えていたので、除草用の鎌を使ってきれいにした。
お酒とお水を替え、お線香を立て礼拝し、姉の婚家の墓へ行き
同じようにお参りした。
それから実家に寄って庭を見ると、雑草が蔓延っている。
「どうする?」と姉とアイコンタクト。
「じじさんが帰宅するまで、私たちも帰れるよね。
頑張って除草剤撒こう!」と、即行動。
4個の如雨露を使って、家の周囲や外の道路まで除草剤を撒いた。
作業が終わって、準備していったコーヒーを飲もうと思ったけど
あまりに天気が良すぎて暑いので、近くの研修館の庭まで行って
一休みすることに。
研修館は無人だったので、庭に車を止め
木陰にを探して、コーヒータイム。
コーヒーを飲みにながら、キョロキョロ辺りを見回してみると
今まで気づかなかった事に気づいた。
ばばが子供の頃は、研修館とかいう建物は無くて
集落の中心あたりに、青年会場という建物があり、
集落の演芸行事や、小学生の「学芸会」なども、この青年会場で行われていた。
又、子供たちの遊び場も、この青年会場周辺だった。
中では、おはじきやお手玉などで遊び、外では缶蹴り、かくれんぼ、鬼ごっこ
縄跳び等々・・・当時の子供の遊びを、学年混合でみんな仲良く遊んでいた。
その青年会場が、いつの間にか「老人と憩いの家」という名前に変わり
離れた場所に、新しく「研修館」という建物ができた。
建物は2棟あり、大きな建物では集落の催し事などが行われ
小さな建物は、台所のようになっている。
お弔いの時などは、この台所でご飯を炊いておむすびにしたり
お鍋で数十人分のお味噌汁を作ったりする。
以前は確か、婦人会の方々が
手作り味噌なども作ったりしていたと記憶している。
ばばは普段「研修館」と言い、聞き慣れてもいるので
この建物は「研修館」だと今日まで思っていたが
よくよく見ると「農業研修館」と書かれていて、「そうなんだ〜」と初めて知った。
又、建物の右側には縦に細長い碑のような物が建っている。
これは「青年会場」の横にあった物を、移設したようだが
この「碑」が何なのか、しっかり見る事も無いまま
半世紀以上経った。
たまたま、今日、碑に書かれていた文字が気になったので
カメラを持って、近くまで行ってみた。
すると、碑の表面には「報徳記念」と書かれ、
左下には「上花徳字民一同建之」と書かれている。
どなたかの行為に対して、集落民一同で建立した碑らしい。
「誰が、どんなことをしたのだろう?」と気になり
碑の裏に回ってみると、そこには
「向井向?翁頌徳之歌」と書かれ、次の行には
「旭き?(読めない漢字1字あり) 牧石山ともろ共に
千代仰ぎなむ 君が?(読めない漢字)を」とあり
最後の行には「大正八年 七月十六日」と書かれている。
この碑は、ばばが子供の頃からあったのに、なぜ建てられたのかとか
親に聞いたことも無ければ、親も話してくれたことも無かった。
向井某さんという方が、何か集落のために尽力して下さって
その行為に対して、集落民一同で建立した碑だと言うことは分かったが
詳しいことは何一つ分からない。
大正七年と言うことは・・・・この碑が建てられて今年で99年になるのかな?
ばばの両親が明治40年と41年生まれだから・・・・
小学生の頃に建てられたのかなぁ・・・・
向井某さんは、集落の先人なのかなぁ?
どういう方なのだろう?
興味が次々湧いてきた。
今度、集落の大先輩と話す機会があったら、是非聞いてみたい。
ごくごく自分の身近にあった物なのに、半世紀以上経って
偶然、興味が出てくるなんて・・・