思い出した・・・・

3月7日(火)晴れ時々雨粒
「♪あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花♪」
ひな祭りもあっと言う間に過ぎ、
島でも桃の花が満開になりつつある。
2月27日に撮影した時は、まだ数輪が開花していたけれど


2日前、同じ木を見に行ったら、ほぼ満開になっていたよ。


あいにくの曇天で、残念だったけど。。。。

今日、明日、県内の公立高校の入試があるのかな?
ラジオでチラッと聞いた。

高校入試かぁ・・・もう、何十年前の事だろう?

数十年前、ばばは奄美市の高校に行く予定だった。
親元を離れ、寮生活・・・とちょっと不安もあった。

ところが、入試の少し前、兄の初任地が喜界高校と決まった。
すると、両親は、ばばひとり奄美市へやるよりは
喜界島で兄と一緒に生活させ、通学させた方が良いと考えたらしい。
話を聞いたばばは、すんなり喜界高校へと志望校を替えた。
あと少し、兄の初任校発表が遅ければ
ばばは奄美市で高校生活を送ったかもしれない。
そしたら、今のばばの生活はあっただろうか・・・
将来の夢は、小学時代から一貫して変わらなかったから
徳之島を中心に、異動する仕事を選択していただろうなぁ・・・

入試の1,2ヶ月前になって志望校を替えたばば。
心配だった。
当時の中学校の教頭先生が、喜界高校がいかに優秀か話した事が
ばばにとっては大きなプレッシャーになった。

いざ、受験になり、数日前に徳之島から船に乗って奄美市へ行き
1泊して、又喜界島行きの船に乗り換えて、喜界へ向かった。
兄が迎えてくれ、当時兄が下宿してもらっていたお宅に宿泊した。

受験当日。
ばばの受験番号は、1番だった。
そして分かった事は、ばば以外の全受験生が喜界島の中学校からの受験だった。
誰ひとり友達もいない受験会場。
ただ、心細くて不安だった。

何とか2日間の受験を終え、合格発表まで待機。
ところが、事もあろうに合格発表数日前から、ばばは体調を崩してしまった。
喜界島の水が合わなかったらしい。
体にブツブツはできるし、発熱するし・・・・

結局、合格発表を見に行く事はできず、当時は携帯電話どころか
固定電話も無く・・・合格発表を見に行った兄が
合格を教えてくれた。

入学手続きを済ませ、徳之島に帰った時は
中学校の卒業式は終わっていた。

ばばが今でも残念なのは、当時は「皆勤賞」というのがあり
ばばは中学校は一度も欠席しなかったので
皆勤賞をもらうはずだったが、喜界島にいて式に出られなかったので
自分で賞状をもらう事ができなかった。
卒業証書と3カ年皆勤賞、家族の誰かがもらってくれたとは思うが
思い出せない。

全く見ず知らずの場所で、友達の一人もいない状態での
高校生活のスタート。
おまけに、教員になったばかりの兄と、自分の分
毎日弁当を作り、朝・晩の食事も勿論、ばばが作った。

住まいは、ばばが一緒に生活するという事で
学校の近くにあった公営住宅に住んだ。
お風呂は無く、毎日、食材の買い物がてら
すぐ隣の集落まで通い、銭湯を利用した。

今のように、宅配さんとかも無かったので
両親が徳之島からカマスに入った脱穀してない籾を送ってくると
御近所からリヤカーを借りて、港の倉庫までもらいに行き
帰りは重いリヤカーを引いて、集落の中央通りを帰っていた。

今考えると、とても恥ずかしい!
高校生の女の子が、リヤカーに大きなカマスを積んで
中央通りを歩くなんてね・・・

晩年まで両親は言っていた。
「何であの時、精米したお米を送らなかったんだろう」と・・・・

精米したお米であっても、カマスに入れて送ったら
リヤーカーで港までもらいに行くのは、ばばだから
対して変わらないけど・・・
籾で送ってくるから、その籾を近くの精米所まで運んで
精米してもらっていたけど・・・
今の時代には考えられない、女子高校生だったかも・・・

3年間では、友達もたくさんできたけど
未だに年賀状をやりとりしているのは、ひとりだけ。
恩師数名とも未だに年賀状だけのお付き合いがある。
卒業以来、高校の同窓会の連絡も無い。
ばばが喜界島に住んでいたら、同級生とも交流があったかも分からないけれど。

徳之島にいても、同窓会と言えば中学時代の友達との集まりで
高校の同窓会は無い。

じじは、中学・高校と地元なので、同窓会も年に数回あり
同級生同士もとても仲が良い。

ちょっと、じじが羨ましいと思う事もある。
でも、小学校時代からの大親友が2名は近くにいるので
ありがたいと思う。

今日が、高校の入試日だと聞いて、
朝から自分の高校受験の頃の事等思い出しているばばでした!

 

投稿者プロフィール

ばば
ばば
最新の投稿