美輪明宏さんの歌
1月13日(日)大荒れの天気
昨年末の紅白歌合戦で美輪明宏さんが「ヨイトマケの歌」を歌った。
ばばも小学生の頃か聞いたことはあったが、
今回の紅白の時の歌には全身総毛立つような感じがした。
暗闇の中から聞こえ♪父ちゃんのなら エ〜ンヤコ〜ラ〜♪
というど迫力のある歌声が聞こえて・・・・
テレビの前に釘付けで聞いた。
最近の若い人たちには、馴染みも無いだろうし
感情移入することも少なかったかも知れない。
でも、ばば達世代は戦後の貧しかった時代に
小・中学生時代を過ごしたので
美輪さんの歌には、ついつい感情移入してしまった。
男の人に交じって土方仕事で収入を得ているお母さん。
子供は学校で「土方の子、汚い子」と虐められ
逃げ出して「お母さんに慰めてもらおう.抱いてもらおう」と
家に帰る道すがら、一所懸命働くお母さんの姿を見て
「勉強するよ・・・」と自分に言い聞かせ学校に戻る。
そうして、立派に成人しエンジニアとなる。
・・・というような内容の歌。
親が子供の為に一生懸命働いている姿を見たら
子供の親に対する思いも変わるんだろうね。
ばばの実家は農業で、両親は本当に朝から晩まで
身を粉にして働いていた。
(子供達には自分たちと同じような苦労をさせたくない)
(これからの時代は教育が大事だ)と考えたのだろう、
不安定な収入の中から工面して長男(ばばの兄)を大学へ進学させた。
ばばの姉ふたりも農業をしたり、幼稚園で働いたりしながら
兄への仕送りに協力した。
末っ子のばばだけが横着で、あまり手伝いもせず
何とかきつい仕事から逃れようと悪知恵を働かせていた・・・・・
現金収入のほとんどを長男への仕送りに当てていた我が家、
余裕が無いのは子供ながらにばばも分かっていた。
でも・・・ばばは・・・・
ある年の学芸会で、せっかく主役になったのに
セーターが無かった。
他の友達は、練習の時からセーターを着ていた。
ばばは、ある日、母に言った。
「お母さん、今度の学芸会で黄色いセーターを着るんだけど・・」って。
母が何と言ったか覚えていないけれど、
最終練習の時までも、遂にばばは黄色いセーターを着ることは無かった。
そして、本番当日。。。。。。。。。。。
今は、島の小・中学校の学習発表会と言えば、学校の体育館で行われ
保護者だけでなく地域の方々も見に来て下さる。
ばばが小学生の頃は、学芸会と言えば、
各集落毎に公民館(集会場)で夜、行われていた。
何故だろう?と考えると、当時は自家用車も無く
学校から遠い集落の方々は学校まで来るのも大変だったのだろう。
そして、日中は保護者はみんな働いていた。
学校行事より、仕事を優先させなければならない時代だったんだね。
・・・で、学芸会の本番当日。
夕方6時半か7時頃から開幕したと思うが、
もうすぐ、ばば出番・・・という時、母が楽屋に来た。
手に何か紙袋を持っていた。
開けると、新品の黄色いセーターが!
すぐに新品の黄色いセーターに着替え思いっきり歌い踊ったばば。
あの時の嬉しく、誇らしかったこと!
今でも忘れることが出来ない。
当時は嬉しさで母がどのように金を工面しあのセーターを届けてくれたか等
深く考えることも無かったが、自分が結婚して親となった時、
色々な場面で、あの時の両親の思いに胸が熱くなった。
毎日毎日、朝薄暗いうちから田畑に出、
夜は星空を見ながら帰る・・・・・
そして、何とか子供達は人並みに・・・・と考えてくれていた両親。
両親のありがたさに気づくのが本当に遅かったと
ばばは、後悔ばかりしている。
両親に恩返しできなかった分、子供を大事にしなければ・・・・と思うけど
それも存分には出来ていないかも知れない。
2日前だったか?
NHKのラジオで、今度は美輪さんが40代の頃歌っている
「ヨイトマケの歌」が流れた。
紅白の時とは声の重みが、やはり違うけれど
歌詞の意味をかみしめながら聞いていると
しぜんに涙が出そうになり、(両親に会いたい!)という気持ちが強くなった。
無理だと分かっていても、無性に両親に会いたいと思った。
そして、心から「ありがとう」と伝えたいと。。。。。。
美輪さんの歌は改めて「親の偉大さ・ありがたさ」を
考えさせてくれた。
美輪さん、ありがとうございます。