牛・豚
10月2日(火)晴れ
ばばが子供の頃、家で牛・豚・鶏を飼っていた。
牛は使役用。
今のように車や耕耘機やトラクターがあった時代では無く
重い荷物を運ぶのは牛だった。
稲や黒糖、お米や材木、イ草等々。
我が家の動力の半分以上、イヤ8割以上は牛が頑張っていた。
暑い日も寒い日も、朝から晩まで良く頑張ってくれていたなぁ。
稲刈りの時期には、脱穀した籾を田んぼから家まで運んだりもしたけど
そんな時、ばばも荷車の隅っこにチョコンと乗っけてもらっていた。
朝早く田んぼに行き、荷車の上から夕月を見ながら帰ることもあった。
牛が子牛を生むと、「馬喰」と言われるおじさん達が
子牛を買いに来た。
ある夜、二人連れの「馬喰」おじさんが来て、家に上がり込んで
商談をしていたが、フイと外へ出て行った。
父が「外で子牛の値段を相談しているんだよ」と言った。
しばらくしてふたりのおじさんは又家に上がってきたが
売り手に聞こえないところで値段を相談して、又上がってくると言うのが
商人らしいなぁ・・・と幼いながら思ったことが、今でも忘れられない。
あの時、子牛を売ったかどうか?値段はどの位だったかは
サッパリ覚えていない。
ばばは「馬喰(ばくろう)」と言う音だけ聞いて
「他人を上手く言いくるめて、安く買いたたく人」だと思っていた。
今の時代も「馬喰」という言葉が使われ、又こう言う商売人がいるのだろうか?
豚も、2,3頭飼っていた。
豚も1頭だけ自家用に残し、あとは大きく育てて売って、
やはり現金収入の糧にしていた。
ばばが子供の頃は、お正月になると各家庭で豚を一頭つぶしていた。
12月も月末になると、親戚のお兄さんが数名我が家に来て
豚を豚小屋から引っ張り出し、牛小屋に立てかけた梯子に
逆さにくくりつけていた。
その後の行動をばばは直接見たことは無いが、
きっと誰かが豚の喉を包丁で刺してとどめを刺していた
その後、豚を浜に担いで行っていたような・・・・・
毛を焼いてむしって、その後、それはプロ並みに捌いていた。
捌くのは家でしていたなぁ。
上手く捌いた肉は、部位別に分けて
すぐ食べる物、保存食用に分けていた。
保存する分はきつく塩をして、大きな瓶で保存し
1年中使っていた。
脂身のところは、炒って油を取り、油(ラード)は煮物や揚げ物に使い
油を取った残りは「油かす」と言って、煮物やお汁に入れていた。
豚の血さえ、捨てずに食べていた。
豚の血を使ったお汁は「血ー汁(チージル)」と言って
大鍋で野菜や豆腐などと一緒に豚の血を炊くと
血が塊のようになって美味しかった。
今ならとても食べられないと思うが。
又、母は豚の血を使ってお餅も作っていた。
茶色っぽくて、今のふくれ菓子のような感じだったが
味は甘くはなかった。
今にして思えば、小さい頃は色んなものを食べていたんだなぁと思う。
それにしても12月末になると、各家庭から
命を絶たれる前の豚の鳴き声が響いていた。
感受性が鈍かったのか?それとも豚が直接殺される場面は見ていなかったせいか
あまり「可愛そう」とは思わなかったが、今なら耳を覆うだろうな。
いつ頃からだったろう?
各家庭で豚を飼わなくなったのは。。。。。
やはり、衛生的な面などから保健所かどこかから指導があったんだろうね。
各家庭で豚を飼えなくなって、畑などに小屋を作って豚を飼っている人はいたよ。
ばばの家のすぐ前のキビ畑の隅っこにも豚小屋があった。
この豚小屋の主は、ばばの家からだいぶ離れた所に住んでいたけどね。
そして、そして、じじはこの豚小屋の近くで
仕事から帰るばばを待っていて・・・・・
ばばの家に来たのが初めてだよね。
だから、ずぅっと後まで「豚を見た後だったから
ばばが美人に見えた」って言うんだよ〜。
ばばは、豚小屋の豚さん達に感謝しなければいけなかったのかな?
まさか、じじと結婚するなんて夢の夢にも思わなかったけど。。。。。
あと、ばばの家では鶏も飼っていたけど、「鶏編」は又・・・・・