「母の日」の翌日・・・

5月9日(月)曇
午前中用事があって、Aコ−プの花屋さんを覗いて驚いた。
店頭がガラガラ状態。
昨夕、義母との面会帰りに寄った時は、
店内・店頭にたくさんのお客さんがいて、
鉢植えのお花を持った人、カーネンション数本を手にした男子高校生
品定めをするように店内を見ている人など、
狭いスペースに溢れんばかりの人がいた。
あの後の今日だから、お店には、ほとんど花が無かったんだろうなと納得。
昨日、男子高生ががカーネンションを持っている姿にちょっと感動したけれど
最近は、男の子でもお母さんにカーネンション贈るんだね・・・・

ばばは、自分の母にカーネンションなんか一度も贈ったことがない。
電話をしたり、手紙を書いたりはしたけれど・・・・
もっともっと両親を喜ばせることをしてあげれば良かったと
今さらながら後悔しているばば。
「親孝行、したい時に親は無し」って
ばばの母がよく言っていた。
ばばが、反抗ばかりしていたから戒めの意味で言っていたんだろうね。
本当に母が言っていた通りになってしまった。

ばばが結婚する時、「これからは、私たちのことは何も気を遣わなくて良いから、
何でもじじご両親を優先しなさい。」と言った母。
じじ両親にも嫁(義娘)らしいことは、あまりしてあげてないけれど
自分の両親にもっと親孝行してあげれば良かった・・・」と後悔ばかり。
ばばが実家近くの職場で働いていた時、母は何時もばばが帰る頃は
門にビールの空きケースを出してちょこんと座り
ばばの車の音が近づくのを待っていてくれた。
一年一日の如くアンバソーメン(徳之島の郷土料理油ソーメン)を作って・・・・・
ばばが車を停めて、降りた時の母の嬉しそうだった顔が
今でも瞼に焼き付いている。
母との楽しい時間を少しでも延長したかったが
家に帰ってじじやさん姉妹の分の夕ご飯を作ったり、
その他の家事をしたりすることを考えたら、
最長でも1時間しか一緒に過ごせなかった。
ばばが、車に乗って帰る時、
母は「ばばの車が見えなくなるまで手を振っていた」と後日聞いた。
その時の母の心中はどうだっただろう?
やはり、寂しくはありながらも
「家庭が大事。早く帰って家のことをしなさい」と言ってくれただろうなと想像する。

最後の勤務地が実家のすぐ近くに決まった時は
何だか両親が呼び寄せてくれたような気がした。
仕事が始まる前とか、昼休み、退庁前、
ばばは、高台にある実家の方に向かって心の中で亡き両親に何百回となく語りかけた。
「お父さん、お母さん、ただいま。帰って来たよ・・・
ばばの働く姿見ていてね。そして、見守ってね」と。
両親が元気だったらどんなにか喜んだだろう・・と思うと切なかったけど・・・
あまりに気が滅入る時などは、両親のお墓へ行きお参りして帰る時もあった。
すると、両親がすぐ傍にいるような気になって、心が安らいだ・・・

母より3年先に亡くなった父。
無口だったけど、その立ち居振る舞い、
笑顔がいろいろなことをばばに語ってくれていた。
晩年の父は、漁師さんが使う浮子や、木の根っこ、海の漂着物など
身近にある様々な物を使って、それは器用にいろいろな作品を創っていた。
散歩がてら、ばばが両親を車に乗せて近くの海まで連れて行き、
一緒に波打ち際を歩きながら、父の創作材料を集めたのが
親子3人での最後のドライブになった。
あの時の両親の穏やかな笑顔、父の嬉しそうだった顔を思い出すと
胸が締め付けられるほど親恋しくなる。

ばばが退職して5年目。
ばばを我が子のように可愛がってくれた、じじの両親は
今は病院と施設で暮らすようになった。
義父は言葉を発して会話をすることは出来なくなったが、
義母は、面会に行くたびに「ばばちゃん、いつもありがとうね。
ばばちゃんにだけ、難儀させてごめんね」と言う。
感謝の気持ちを忘れない義母に頭が下がる。

ばばには自分の産みの両親と同じくらい大切なじじ両親がいる。
両親がこの世に存在していると思うだけで心強いし、嬉しい。
ばばに出来ることなんて知れているけれど、
自分の親に出来なかった分まで、じじ両親を大事にしていきたいと
固く心に誓った、昨日の「母の日」だった。

 

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