行きたいなぁ・・・もう一度
5月15日(土)曇り時々晴
今日も、晴れたり曇ったりの徳之島です。
夜になると、暑い、暑い。
4,5日前から、ばばは足下に扇風機をつけていた。
じじは、冷房とかに弱くて、すぐ喉が痛くなるので扇風機、まだ要らないって。
夕べも、片付けなど終わって、2階へ上がると何故か部屋の戸が閉まっている。
開けて中へ入ると「涼しい!」。
「どうしたの?じじ」って聞いたら「昼間雨が打ち込むといけないから
ガラス戸締め切っていたら、暑くて」と言う。
「大丈夫なの?クーラーつけて」と聞くと
「4時間、タイマー設定してあるから大丈夫だよ」って。
今年は、5月14日がクーラー使い始めか〜と思いながらも
気持ちが良くて、朝まで殆ど目覚めず熟睡。
今朝も朝から張り切って始動。
一段落した10時頃、ばばは庭で鉢植えの植物の剪定などしていたら
家の中から「ばば〜これ、何?」とじじ。
えっ?と思って見ると、朝食時、じじに食べてもらおうと
焼いた魚をレンジで温めて、そのまま出すのを忘れて、入れっぱなし・・・トホホ。
じじが、嬉しそうに「ばば、これからはじじ笑えんな。じじを笑うな 行く道じゃ」って、
言われても仕方ない事しているから、仕方ないかぁ〜
夕べ「NHKで7時半から、瀬戸内町の加計呂麻が出るよ」ってじじが教えてくれた。
じじったら、7時25分になったら、自分が食べる物をお盆に乗せて、さっさと2階へ。
ばばも、食器とお箸を持って後を追った。
加計呂麻・・・・・・懐かしい・・・・そして、大好きな場所。
じじと結婚して5ヶ月後、異動で加計呂麻へ渡り4年間、勤務した。
加計呂麻の方々は優しくて、自然は美しくて・・・・
でも、小さな子どもを預かってもらえる施設等が無く、頼れる人も無くて、
生後3ヶ月から長女を、じじ両親に預けての勤務だったので、早く島に戻りたかった。
4年の勤務を終え、島に戻り、それから20年以上、島で勤務したとき
何か条例?が変わり、ばばだけ、もう一度加計呂麻へ・・・・
2回目の勤務だったので、今度は3年で島に戻れると言う事で
泣く泣く単身赴任を・・・・・
最初の頃は、ひとり暮らしが寂しくて、夕方家に帰り
鏡に映る自分の顔を見ては泣き、きれいな夕日を見ては泣いていた。
でも、時間が過ぎるにつれ、集落の方々の優しさの中で、何故か元気が出て
3年の勤務が終わる頃には、正直(後数年、ここで働きたいなぁ)と思っていた。
買い物に行くにも、バスに乗って山を越え、海を渡り・・・・という生活だったが
集落の方々は、「みな家族」みたいなお付き合いをしていて、
子ども達は素直で、時間はゆったり流れ
自宅の裏山では朝からアカショウビンが鳴き、職場の真ん前は青い碧い海で
天気が良いと、遙か彼方に徳之島の島影が見えた。
集落、隣近所の方々は優しく声をかけてくれ、畑で取れた野菜を持って来て下さったり
釣れたばかりのお魚を届けて下さったりもした。
あれから20年近く経ったけど、未だに、年に数回は電話をし合ったりしている。
夕べ「加計呂麻がテレビに出るよ」と聞き「もしかして?知ってる方々や
懐かしい場所が出るのでは?」と、食い入るようにテレビの画面に見入っていた。
30分番組だったけど、瀬相港、生間港、ふたつの港が出たけど
集落内の風景とかは殆ど出なかった。
だよね。。。。「海上タクシーに乗って???(だったかな?)」という番組名だったからね。
それでも「海上タクシー」って懐かしかった〜
定期船がいなかったり、間に合わなかったりした時は
船を貸し切って、ばばも買い物に出たり、帰ったりしていたからね。
貸し切るときも、数名いたら、そんなに高い料金では無かった記憶がある。
小さな船に乗って、大島海峡を眺めながら・・・・気持ち良かったな〜
たまたま、夕べ「でいご」丸という船が出たが、その船の船長さんは80歳って。
じじが、勤務していた職場の校区の方で、じじが知っている方の兄弟だったらしい。
じじは「お〜〜っ」っと懐かしがっていた。
30分で番組は終わったけれど、その後も暫く加計呂麻の余韻に浸っていたばば。
じじg「コロナが終息したら、又、かけ色なへ行こうね」って。
早く、その日が来たら良いなぁ・・・・
ばばは、10年位前かな?
元職場の同僚が、加計呂麻へ転勤になったので
友達数人で、加計呂麻へ行った事があるんだけど、
その時は、自分が勤務していた職場や、じじが勤務していた職場周辺を
ゆっくりと廻る事は出来なかった。
元気なうちに、もう一回行けたら良いなぁ・・・
楽しい思い出がたくさん出来た加計呂麻へ。
当時お世話になった方々が、お元気なうちに。