感謝してもしきれない・・・

2月5日(水)曇り時々小雨

今日は、義父が亡くなって7年目の命日。

ガザニア

色々なことが思い出され、朝食の時もじじと話しながら父を偲んだ。

大正生まれの父。

ばばが最初じじと出会ったのは、町の教科部会だった。

父は中学校の国語教師で、ばばは小学校で国語部だった。

部会で一緒になっても、挨拶を交わす位で、別に話す事もかった。

大先輩でもあり、一見厳しい感じもしていたから。

時が経つうちに、後に義妹となる、じじ妹とも会合などで会う家に面識が出来た。

義父・義妹、ばばと職場は違うけれど、同じ職種だという事も分かった。

じじは島外に勤務していたので、存在も知らなかった。

父と出会って、3年目だったか?夏のある日

ばばの卒業した小学校区の大先輩と父、それにひとりの青年が我が家の庭に。

それが、じじと最初の出会い。

じじとは、会って1ヶ月と2週間後に何故か入籍、入籍から約約2ヶ月ちょっとで結婚。

あれよ、あれよと言う間の事で、自分のことでありながら

ばばは何が何だか分からないうちに、人生が大きく変わってしまった。

未だに全て、父のプロデュース?だったんだろうなと思っている。

父と出会った頃は「とても厳しい人」と思っていたが、予想とは全く逆で

父が亡くなるまで、褒めてはくれても、一度も叱られたことも無く

孫が生まれると、孫育てまで母と2人で一手に引き受けてくれた。

父は戦争体験もあり、とても苦労人だったと、後々じじから色々聞いた。

在職中も、退職後も早朝、必ず習字の練習をしていた父。

用紙が真っ黒になるまで、父が練習した跡を見て、

後日、改めて頭が下がる思いだった。

毎日薄暗いうちに起き、習字の練習をし、畑仕事をしてきて出勤する。

そんな父も、加齢と共に・・・特に80歳を超えてから、

行動が少し???と思えるようになり、一旦外出したら

自分の家にどう帰れば良いのか迷っていて、

知人が連絡をくれたことが数回あった。

少しずつ認知症の症状も出て、最後の数年はグループホームにお世話になり

在所中、体調を崩し病院へ搬送され、晩年は病院での生活になってしまった。

母、じじ、ばばと3人で毎日食事の介助に通い、面会に行った。

意識がしっかりしている時は、手を差し出すと握手をしてくれたり

手を握ると、強く握り返したりもしてくれた。

たまたま義妹夫婦も帰省していた時、夕食時にばばが病院へ行った。

父の様子がおかしい!

すぐ、じじと妹夫婦も走って来てくれた。

4人で見守る中、心電図の形がだんだん平坦になり

先生が「ご臨終です」と・・・・

じじは「延命措置をお願い出来ませんか?」と訴えたけど

前もって「延命措置はしません」という同意書にサインしてあったので叶わなかった。

ベッド上の父の顔は安らかで、今にも起き上がらりそうだった。

父と永遠の別れと思うと、言い様もなく、辛く寂しく悲しかった。

でも、最期、体に沢山の管を付けられ、口からの栄養摂取も出来ず・・・・

という父の姿は痛ましくて、これ以上父を苦しませたくないという思いもあった。

昼間面会に行った時は、普通にベッドで寝ていたのに

その晩、体調が急変し、永遠の別れとなってしまった父。

父が亡くなって7年。

未だに、感謝の気持ちしか無い。

じじと結婚した時に「これからは女性も働く時代だから、

ばばちゃんが仕事を続けたかったら続けて良いよ、小さい頃からの夢を実現した仕事でしょ。

お母さんと2人でできる限りの応援はするから」と言ってくれ、

有言実行してくれた。

じじとばばに代わって、我が娘達を育ててくれ、色々な先人の知恵を教えてくれた。

じじには「ばばちゃんも、同じように働いているんだから

君も出来ることは手伝ってあげないといけないよ」と絶えず言ってくれた。

そのおかげで、一番楽をしたのはばばかも・・・・

部活動も担当していたじじなのに、娘達をお風呂に入れたり、おむつを替えてくれたり

自転車や鉄棒を教えたり、海に連れて行ってくjれたり・・・・・・

娘達にとって、たまに厳しかった時もあるだろうが

今なら父親の気持ちも理解出来るかも知れないね。

自分には厳しく、家族にはとても優しかった父。

今のばば家族があるのは、じじ両親あってこそだと、ずっと感謝している。

尊敬し、感謝してもしきれない父の仏前に深く頭を垂れる、今日のばばです。

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