ターニングポイント
11月13日(火)小雨
今朝はポツン、ポツンと雨樋から落ちる雨音で目が覚めた。
朝から小雨模様の徳之島です。
天気のせいか、ちょっと神妙な気持ちになっているばばです。
ばばのこれまでの人生には、いくつかのターニングポイントがある。
その最たるものは、20代後半に自分が破傷風になり、3日間意識不明状態で
生死の境をさまよった事と、30代後半に長姉と兄が同じ年に亡くなった事だ。
自分が意識不明だった事は、意識が戻ってから周囲から聞かされた事ではあるが
眠り続けていたばば本人は痛くも痒くも無く、じじや親兄弟に
計り知れない不安と心配をさせてしまった。
しかし、兄と長姉との突然の別れは予想だにしなかった事で
立場が真逆になった。
直前まで元気だった人が急に亡くなる・・・
わずか半年の間に、最も頼りにしていた長姉と兄との永遠の別れが訪れるなんて・・・
昭和63年、姉が4月に53歳で、兄が9月に49歳で突然亡くなった。
直前まで畑で農作業をしていて、さぁ、家に帰ろう・・・という時に姉は倒れた。
又、出勤準備をしている最中に、兄は体調を崩した。
大好きな人や家族ともいつかは永遠のお別れの時が来る・・と頭で分かってはいても
現実的な事としては、当時、受け入れられなかった。
しかし、時間が経つにつれ少しずつ受け入れざるを得なかった
と言うより、色々な事がそれまでとは変わっていった。
そんな中で、ばばは「兄さんと姉さんの年迄私は生きられるだろうか?」
と自問自答する日が続いた。
頼りにしていた子供二人に先立たれたばば両親。
亡き兄と姉に代わって、できる限りの親孝行をし、サポートしていきたいと思った。
「自分は親より長生きしなければ・・・これ以上親二人を悲しませてはいけない」
という思いはありながらも「もし私が親より先に亡くなってしまったら・・」という思いも交錯した。
又「色々な物を残すのは止めよう」と思った。
それまで書きためていた家計簿や日記など全て焼いた。
友人知人からもらった手紙なども一緒に焼いた。
少しだけ気持ちが軽くなった。
「出来る間に親孝行をしよう」と思った。
じじの理解と協力もあり、週末は必ず次姉家族も誘い
2家族で実家へ帰り、両親に孫達と遊んでもらった。
母は毎週のように得意な「油そうめん」を作り
たまには肉や卵焼き、刺身まで準備して待っていてくれ
父は昔話をしてくれたり、孫達の話ににこにこ耳を傾けていた。
だいたい寄る7時から8時の間には自家を出発する時間だった。
帰る時刻になると両親は玄関先で孫達に必ず一人100円ずつのお小遣いを握らせてくれた。
そして、ばばが車を運転して、車が動き出すと、子供達は窓から手を出して
じいちゃん、ばあちゃんと握手をし、声をそろえて覚えた手の方言で挨拶をした。
「(オボラダレン)ありがとうございました。
又、ケェーユシャヤ(又来るからね)体、気チィキンショリヨ(体、気を付けてね)」と。
応えてじいちゃん、ばあちゃんは「又、クーヨー(おいでね)」と
言って、お互い手を振りながら分かれる・・・
このように、毎週土曜日の昼から夜まで、孫と一緒に過ごしてもらった。
1週間に一度しか会えない祖父母と孫達だったが
わが家の娘達も、ばば実家へ通っていた事は、未だに良く覚えている。
今にして思えば、自分の両親を車に乗せて、
島内あちこち連れて行ってあげたりもすれば良かったなと思う。
当時は今のように週休2日とかではなかった。
ばばも仕事優先で、子育てと家事で、日曜日は家事を終えると
グタ〜〜ッと寝ていたらしい。
植物が好きで、色々な細工が好きだった父。
母と一緒に海へ連れて行って、浮き玉やサンゴの欠片など父の作品作りの材料など
親子で沢山集めてあげれば良かった。
海岸線や野原で、珍しい植物など採集できれば良かった。
青い青い海を眺めながら、色々な話を聞いたりしたら良かった。
母が作った事の無い料理を作ってあげれば良かった。
・・・・・・・ああもすれば良かった、こうもすれば良かったと反省ばかり。
でもね、ばばは思う。
子供達が都会へ出て、親子離ればなれの生活をする家庭も多かったけど
ばばは、学生時代以外、ずっと島にいて、島の人と結婚し
いつでも親の近くにいたことは、唯一の親孝行では無かったかと。
自分が破傷風になって生還した時は、周囲への感謝の気持ちと
家族のために最善を尽くして恩返しをしようと決意も新たにしたばばだった。
あれからウン十年・・・・
ばば、初心を忘れてはいませんか?
周囲への感謝の気持ちを持って、日々生活している?
家族を大切にしている?
うぅ〜〜ん・・・・反省すべき点、多々かな?
※今日の画像は日曜日に行われた漁港でのお祭りの時に見た
夜行貝や、伊勢エビなど、徳之島の海の宝物の一部ですよ〜