母に見せたいなぁ
7月16日(土)晴れ時々曇り
ばばは「ユンバイ(ユンバラ)ムン」。
「ユンバイ(ユンバラ)ムン」とは「怠け者」という方言。
子どもの頃、どうしたら家の手伝いをサボれるか?考えていた。
ばばの家は農家で、学校が休みの日は、朝から晩まで、
家族全員で田植えや稲刈りや脱穀、その他諸々の農作業をしていた。
末っ子のばばは、稲刈りの途中でも抜け出して、すぐ目の前の川で泳いだり
田んぼの水たまりでドジョウやフナを捕まえたり・・・・
それでも、お茶時や食事時は真っ先に母の横に陣取っていた。
いつでも家族一緒。
今から考えたら、何て幸せな事だろう?
朝、薄暗いうちに、牛車に乗って父と一緒に出かけ、夜は星を見ながら帰宅する。
手伝いの合間に野いちごを摘んで食べたり、川底に潜って粘土を取ったり・・・
だけど、末っ子で怠け者だったばばは、家の庭で脱穀をする時など
手伝いに飽きると、家族に見つからないように、そっと家の裏の畑から
屋上に上がり、真夏の太陽の下、コンクリートの屋上で寝ていた。
良くもまぁ、焼け付くような太陽の下、それもコンクリートの屋上で寝るなんて。
恐ろしや〜
小さい頃から日に焼け過ぎて、真っ黒黒助になったのかなぁ?
サボリマンのばばでも、時にはサボるけど
普段は母が言いつけた仕事を、まぁまぁ、やっていた。
例えば、家から数キロ離れたサツマイモ畑にひとりで行って
豚の餌にする芋づるを刈って束ね、
その後はカゴのいっぱいになるまでサツマイモを掘って背負い帰っていた。
帰る途中の川で、掘ったサツマイモを洗い、背中中濡れ鼠で帰るのだった。
ばばの母は、躾けに、とても厳しかった。
他所へ言った時の挨拶とか、お客さんが来た時の座り方等
特に厳しかった。
ばばが、お客さんの前で足を崩したり、立て膝で座ろうものなら
お客さんに気づかれないように、思いっきり太股をつねられた。
ばばが約束を破ったり、あまり横着をすると
家の真ん中の柱に、短時間括り付ける事もあった。
「厳しい母」「恐い母」という印象が強く、ばばはいつも反抗していたが
両親は、素直で無いばばに諺とか、昔話で色々教えてくれる事もあった。
「正直は一生の宝」「人の振り見て我が振り直せ」とか
それはそれは沢山の諺を教え、たまには自分たちが学校時代習った国語の教科書を
暗記して、ばばに聞かせる事もあった。
両親は明治40年と41年生まれで、ばばは両親が40歳位の時に生まれた。
小学生の頃、友達の両親は若いのに、自分の両親が年寄りに見え
親が学校に来るのがイヤだった。
貧しくても、惜しみない愛を子ども達に注ぎ
自分たちの背中で、子ども達にかけがえの無い物を沢山、沢山伝えてくれた両親。
しかし、本当に親のありがたさが分かったのは、
社会人になる前後からだった。
苦労して、苦労して、兄とばばを高校、大学まで行かせてくれた。
希望通りの仕事に就き、結婚し、自分が親になった時
「さぁ、これからは両親にも、お小遣いなどあげよう。旅行にも一緒に行こう。
子ども達(両親にとっては孫)をなるべく実家へ連れて行き遊ばせよう」と思った。
毎週末、家族で実家へ行き、一緒に夕ご飯を食べた。
帰りには、我が家の三姉妹と姉の子ども達に、必ず100円ずつ、お小遣いをくれた。
車に乗り込むと、子ども達は窓からかを出し、じいちゃん、ばあちゃんと握手をし
「オボラダレン。又、キェーユシヤー。体、気チィキィンショウリヨ」と
方言で挨拶した。
「ありがとう。又来ますからね。体、気をつけて下さいね」という方言で
毎回、実家へ行く度に帰りは、この定型文で「さよなら」していた。
ばばと姉家族が乗った車が見えなくなるまで、
両親は門で手を振って見送ってくれていた。
あの頃の、あの時間が、両親にとって、一番幸せな時間だったのではなかろうか?
平成4年に父が、7年に母が亡くなった。
今日は、母が亡くなって21回目の命日。
だから、昨日、実家のお墓に行き、お墓の前で両親に色々報告してきた。
子どもの頃、怠け者で我が儘三昧だったばばも
今は・・というか、最近は特に、朝から晩までよく働いていますよ〜ともね。
両親が亡くなって20年以上経っても、更に両親への思慕が募るばば。
やはり、末っ子の甘えん坊体質は変わっていないのかなぁ。
※画像は、何故か昨日、1輪だけ咲いたクチナシです。
母に見せたかったなぁ〜、この綺麗な花。
クチナシも年に数回、花を咲かせるのかなぁ?
梅雨の前辺り、沢山のクチナシが咲いたと記憶しているが・・・・