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徳之島の成り立ちとあゆみ

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    じじじじ
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    徳之島の成り立ち

    約1,000万年前は現在より海面が低く、日本列島は大陸と陸続きになっており、台湾から続く海岸線を形成していたと考えられています。

    約150万年前、日本列島と大陸は分断され 、生物の南下や北上が極めて困難になりました。この海峡は屋久島から南にあり現在トカラ海峡になっていると考えられています。

    その後の約100万年前から活発な地殻変動が起こり、南西諸島はいくつかのブロックに分断され、隆起と沈降を繰り返しました。

    さらに氷河期の終わりに伴う海面の上昇により、現在の琉球弧と呼ばれる島々が形成されたのではないかと考えられています。

    トカラ海峡より南に生息するトゲネズミやケナガネズミなどは徳之島よりさらに南のインドネシアとの関係が深く、ニホンザルやムササビなどはこの海峡を南限としています。

    このため、この地方は九州・本州の動物相と異なるとともに沖縄本島とも異なる固有の種および亜種が多数生息・生育することとなり、「東洋のガラパゴス」といわれる特色のある地域になっています。

    徳之島のあゆみ

    徳之島の主な出来事
    同時期における日本の出来事

    699 度感(徳之島)の人が大和朝廷に宝物を献上
    710 平城京遷都
    1263 徳之島が琉球国の政治的支配下に入る
    1274 文永の役(蒙古襲来)
    1609 大島・喜界・徳之島・沖永部島・与論の5島が薩摩領となる 1603 江戸幕府を開く
    1862 西郷隆盛配流
    1853 ペリー来航
    1864 犬田布騒動(農民一揆)
    1867 大政奉還
    1946 日本国土と行政分離、米軍制下におかれる
    1945 太平洋戦争終焉
    1953 日本行政下に返還

    「奄美世」(あまんゆ)の時代

    原始から8、9世紀の頃までの集落共同体を中心に外部のどこからも統治を受けることなく地域の小豪族が支配した時代を「奄美世」(あまんゆ)と呼んでいます。徳之島の名前が史書に登場するのは、大和文武3年(699年)、度感(どく:徳之島のこと)の人が大和朝廷に宝物を献上したと記されているのが最初です(『続日本紀』)。当時、徳之島は大和朝廷との交流を行ったり、遣唐使の南島航路の中継地として役割を果していました。

    「按司世」(あじゆ)の時代

    続いて、農業が盛んになり貧富の差が生まれてくると、富を貯えた地域の有力者は沖縄本島に倣って按司(あじ)と呼ばれるようになり、グスクという城を拠点にして周辺を支配していきます。こうした豪族の首長たち「按司」が群雄割拠する時代を「按司世」(あじゆ)と称しています。 壇ノ浦の戦いに敗れた平氏が、奄美群島に落ち延び住み着いたのもこの頃で、今も多くの伝説が残っています。また奄美諸島には平の苗字が多いのもこのことを裏付けています。

    「那覇世」(なはゆ)の時代

    琉球王朝の行政区域のひとつとして統治されたのは、1263年に琉球北山王が派遣した「首里の主」が3つの間切(東間切、面縄間切、西目間切)に役所を置いた時からとするのが通説となっています。 1429年に尚氏が沖縄本島を統一すると、奄美諸島もその統治下に入りますが、琉球王朝は、慶長14年(1609年)に薩摩藩に征服され、属国となりました。それまでの期間を「那覇世」(なはゆ)の時代といいます。

    「薩摩藩」の時代

    島津氏は、琉球における明国との貿易の利益をねらって、琉球の都、首里を攻め滅ぼし、慶長14年(1609年)に奄美群島もその直轄の統治下におきました。徳之島も与人(よひと)と呼ばれる島役人によって間接的に治められていましたが、実情はその上の薩摩藩の代官が支配権の一切を握っていました。薩摩藩は、奄美人の同化を許さず、本島への往来を禁止、衣服など身なりを琉球風に規制するなど「藩内にあって藩内にあらず」の取り扱いをしていました。 この政策の裏には、藩が抱えていた莫大な財政赤字があります。藩は財政の立て直しを図るため、換金性の高い黒いダイヤ「サトウキビから造る黒糖」に目をつけ、黒糖の生産を奨励しました。黒糖産業は奄美を代表する基幹産業として発展し、延亨3年(1746年)には「換糖上納」により、米に変わって黒糖が年貢として納められるようになります。しかし島民は黒糖の自家消費も許されず、すべてが薩摩藩の専売制となり、農民はサトウキビの栽培に追われるだけの極めて苦しい生活状況におかれていました。この薩摩藩の圧政に対して犬田布(いぬたぶ)騒動などの暴動が多発します。薩摩藩の統治は、明治4年(1871年)の廃藩置県を経て、明治8年(1875年)の戸長制が敷かれるまで266年間続きました。

    「明治から復帰前」の時代

    明治4年(1871年)に廃藩置県が実施されますが、奄美群島は交通が不便であったため、しばらくは藩のままでした。その後明治8年(1875年)に藩政が事実上廃止になり、亀津に徳之島支庁が設置され、民選の正副戸長によって行政事務が行われました。明治41年(1908年)に徳之島は亀津、天城、伊仙の3ヶ村に区画され、大正5年に天城村が分割され新しく東天城村が発足して、徳之島は4ヶ村になりました。昭和16年(1941年)には亀津村が町になり、第二次大戦の半ばの昭和18年(1943年)末には、大島支庁徳之島出張所が設けられました。徳之島は戦時下中延べ113日間空襲を受けました。明治から終戦までの間、鹿児島県は大島郡を鹿児島本土から公的投資はしないとする独立予算制度を執っていました。昭和21年(1946年)1月、連合軍最高司令部の覚書きにより、本土と分離され、米軍政下におかれました。この年に第一次通貨切換が行われ、また、全郡市町村長、議員の初の公選が行われました。昭和25年(1950年)には臨時の政庁から奄美群島政府になり、独立した国家のようになっていました。この間、本土との交流や交易が禁止され、飢餓から逃れるため密航が横行しました。昭和26年(1951年)12月、泉芳郎が中心となり「復帰協議会」が設立され、復帰要求の署名運動が高まります。島民の99.8%もの復帰嘆願の署名が集まり、やがて、昭和28年の本土復帰へと結びつくことになりました。しかし、この米軍統治期間の間、沖縄や本土と比べ奄美群島の経済復興は大幅に立ち後れました。

    「復帰後から現在」

    昭和28年(1953年)12月、米軍はクリスマスプレゼントと称して日本行政下に返還し、奄美群島は鹿児島県政下に加わりました。 島民は、敗戦とそれに引き続く8年間の行政分離により耐乏生活を余儀なくされましたが、本土復帰後の奄美群島復興特別措置法に基づいた復興、振興開発事業などの実施により、社会経済、文化などあらゆる面において島民の生活水準も年々向上しました。なお、昭和33年(1958年)4月に東天城村と亀津町が合併し徳之島町が誕生、天城町が昭和36年(1961年)から、伊仙町が昭和37年(1962年)から発足し、現在の町に至っています。

    (参考資料 九州農政局より)

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